塗料の歴史について

塗料の歴史 外壁塗装 リペイント匠

私たち塗装業者においては、住宅に対して『塗料』を活用して、色によって心が癒され生活を豊かにし、塗料の持つ機能性によって生活の安定に繋げています。

 

私たちの身の回りにおいてみても、さまざまな『色』に囲まれていることがお分かりになるのではないでしょうか。

 

塗料の歴史を見てみると、なんとわが国では今から約9,000年前(紀元前7,000年前)の縄文時代においても、土器や遺跡に色が塗られていることが判明しています。

 

卑弥呼がいた時代には古事記や日本書紀によって白・黒・赤・青の色が存在していたことが分かっていますし、聖徳太子の時代では鮮やかな色を作るのが難しかったことから紫の冠を一番高い位に設定していたことも知られています。

 

塗料はそのような時代を経て発展し、私たちが取り扱う塗料に結びついているのです。

 

そこでここでは、塗料・色についてのルーツをさまざまな文献や資料から調べ、どのように現代の塗料が誕生したのか記事にしてみました。

 

歴史については諸説あるために史実ではない可能性がありますが、塗料の歴史としてお楽しみいただければ幸いです。

 

世界各地の塗料の歴史~概要編

塗料の歴史 外壁塗装 リペイント匠

色は、人類が文明を媒介してきた歴史の中で重要な役割を果たしてきました。

 

古代の時代から、色は衣服、装飾品、建築物、芸術作品など、多くの文化的な表現に使用されています。

 

色の使い方や意味合いについて、古代ではどのような場所にどのような色がどのように活用されてきたのか、その概要について解説していきます。

 

古代エジプト

古代エジプトにおいては、鉱物や植物、動物などといった自然由来の素材を用いて塗料が作られていました。

 

これらの素材は、地元の砂漠地帯に豊富に存在し、独自の文化を育んでいく上で重要な役割を果たしていたのです。

 

鉱物の塗料は、岩石や鉱物を砕いて粉末にしたものを、液体やペースト状の媒体に混ぜて使用されてきました。

 

例えば、青色の塗料は、石灰石やアズライト、マラカイトなどの銅鉱石を砕いて作られ、液体の鉱泥と混ぜて使用されました。

 

また、黒色の塗料は、炭素を砕いたものを液体のガアラビックなどでペースト状にしたものが使用されました。

 

植物性の塗料は、木の樹皮や果実、根、葉などを加工して作られてきました。

 

代表的なものに、赤色の塗料に使われたヒポエラを砕いたものや、サフラワーの花びらを加工したものがあり、黄色の塗料に活用されています。

 

動物性の塗料は、カニや貝などの甲殻類、虫などが使用されました。代表的なものに、青色の塗料に使われたインドネシア産の蝶の翅の粉末があります。

 

これらの塗料は、建築物や彫刻、絵画などの表現に幅広く活用されました。

 

特に、エジプトの王墓には、美しい色のフレスコ画やヒエログリフが残されています。

 

加えて、宗教的・宗教上の儀式にも用いられ、古代エジプトの文化の一部を形作る重要な要素となっていました。

 

色は神聖なものであり、多くの象徴的な意味合いを持っていたのです。

 

青色は、水や天空を表す色であり、ホルス神やイシス神などの神々を表す色とされています。

 

ニロ(ラピスラズリ)から作られた青色の絵の具は、貴重なものであり、ファラオの墓や神殿の装飾などに使用されました。

 

また、赤色は、生命力や再生を表す色とされ、カルナック神殿の壁画などに赤い染料が使われました。

 

さらに、黄色は、太陽や創造力を表す色とされ、 エジプト神話の太陽神であるラーを表すために使用されました。

 

また、エジプトの女性は、赤い口紅や黒いアイライナーを使用して、美しさを強調しました。

 

古代ギリシャ

古代ギリシャでは、塗料は主に天然由来の素材を使用して作られており、代表的な素材には、鉱物、植物、貝殻、動物性のものが見つかっています。

 

鉱物の塗料は、石灰石や鉄鉱石、銅鉱石、鉛鉱石などが使われており、これらの鉱物を砕いて粉末にし、水や油などの媒体に混ぜて塗料として使用されました。

 

色としては、白色、黒色、赤色、青色などがあります。

 

植物性の塗料は、染料や顔料として使用するために作られ、代表的な素材には、ギリシャクサノキ、ローマカミツレ、ミロバラン、クチナシ、藍などが見られています。

 

代表的な色には、黄色、赤色、青色、緑色などがあります。

 

貝殻は、赤色の塗料に使用され、代表的なものに、アカミミガイがあります。

 

この貝殻を砕いて粉末にし、水や油などの媒体に混ぜて赤色の塗料として使用されています。

 

動物性の塗料は、貝殻を使用する場合を除いて、あまり使用されませんでしたが、鳥の卵殻を使用した白色の塗料があったとされています。

 

これらの塗料は、古代ギリシャの建築物や陶器、絵画、彫刻などの表現に幅広く活用され、劇場の舞台や仮面などの演劇でも見つけることができます。

 

神話や哲学、政治などの文化的なテーマを表現するため、重要な役割を果たしてきました。

 

青は、神々の色とされ、天空や海を表現するために使用され、哀悼の儀式や葬式で使用されていることが分かっています。

 

赤色は、戦争や勝利を表す色とされ、軍や盾などに使用されました。

 

また、金色は、神聖さや高貴さを表す色として、宝装飾品や装飾品に用いられました。

 

ギリシャの芸術家たちは、青、赤、黒、白、金などの色を多用し、彫刻、建築、陶器、絵画などに彩りを与えました。

 

紫色は、皇帝や上級貴族の衣服に用いられ、一般人が使用することは禁止されていました。

 

古代中国

古代中国においても、色は様々な文化的な表現や記号として用いられてきました。

 

黄色は太陽や皇帝の色とされており、赤色は火や生命力を表し、白色は清浄や純潔を表す色とされてきました。

 

これらの色は、その後中国文化にも受け継がれ、中国における色の象徴的意味合いの基礎となりました。

 

中国の歴史において最も有名な王朝のひとつである周朝(紀元前1046年頃-紀元前256年頃)では、色の使用がさらに洗練されました。

 

紫色は王室や貴族の支配的な色とされ、赤色は儀式や祭典の色、黄色は位の高い人々の象徴的な色とされたことが知られています。

 

また、青色は貴族の娘の結婚式に使われ、緑色は春の訪れを表す色とされました。

 

中国の歴史において最も長く続いた王朝である漢朝(紀元前206年-220年)では、色は芸術や装飾品において重要な役割を果たしています。

 

漢朝では、青色は天や水を表す色とされ、紫色は高貴さを表す色、赤色は情熱や活力を表し、黄色は立つ人の高い人々の象徴的な色とされました。

 

漢朝の陶器や絵画には、このような色彩が豊かに使われ、美しさや優雅さが表現されています。

 

また、唐朝(618年-907年)に入ると、色の使用がさらに進化し、さまざまな文化的な意味合いが生まれました。

 

紫色は皇帝の色とされ、緑色は春の到来を表す色に、 黒色は儀式や喪服の色とに、白色は純潔や清潔を表す色とされました。

 

さらに、これらの色は芸術作品や建築物にも用いられ、美的感覚や文化的なメッセージを表現しました。

 

古代日本

古代日本においても、色は文化的な表現や象徴として用いられてきました。

 

最も古い日本文献である『古事記』や『日本書紀』には、色に関する記述が多く見られます。

 

色の使い方はまだ明確に定まっていないため、複数の色が同じ意味合いで使用されることがあったようです。

 

弥生時代(紀元前300年頃-紀元3世紀)に入ると、鉄器の出現により色の種類が増え、色の使い方も多様化しました。

 

赤色は縄文時代と同様に火や生命力を表し、青色は水や海を表す色とされ、黄色は穀物や土地を表す色とされました。

 

また、白色は純潔や神聖なものを表し、豊かな黒色は神秘的で神聖な色とされました。

 

古代日本において最も有名な王朝である飛鳥時代(538年-710年)に入ると、中国文化の影響が強くなり、色の使い方が洗練されました。

 

紫色は儀式や祭典の色とされ、白色は正装の色とされ、防御は喪服の色に、青色は織物や陶器の装飾に使用されました。

 

奈良時代(710年-794年)に入ると、仏教が日本に入り、色の象徴的な意味合いが多様化しました。

 

この時代には、金色や銀色が美しく装飾的な色として使用され、仏像や寺院の建築にも広く使われました。

 

また、紫色は天皇家や貴族の色として使用され、白色は純潔や清潔を表す色として使用されました。

 

平安時代(794年-1185年)に入ると、色の使用がより洗練され、芸術表現や装飾品において重要な淡色になりました。

 

この時代には、青色は水や空を表す色として使用され、紫色は貴族の象徴的な色として、また、赤色は儀式や祭典の色として使用されています

 

 

紀元前の塗料~漆(うるし)の活用

時代 塗料の歴史 時代背景
紀元前7,000年

(約9,000年前)

北海道函館市(垣ノ島A・B遺跡)

●     漆塗り注口土器(垣ノ島A遺跡)

●     漆製品の肩当て(垣ノ島B遺跡)

●     漆の土坑墓(垣ノ島B遺跡)

※世界最古の漆製品とされています。

縄文時代初期
紀元前6,000年

(約8,000年前)

石川県七尾市(三引遺跡)

 

縄文時代初期
紀元前1,000年

(約3,000年前)

青森県八戸市(是川遺跡)

●     木胎漆器をはじめとする漆製品が多数出土。

縄文時代晩期

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紀元前における塗料を調べてみると、赤色の顔料を漆(うるし)に混ぜたものを活用して、土器などの器に塗ったものが各地から多数見つかっています。

 

縄文時代に赤色は血や魂の色として、魔除けや復活などを意味しているという研究もあり、特別な色であったことが分かります。

 

さまざまな遺跡から漆製品が見つかっていますが、その中でも代表的な遺跡をピックアップしましたのでご紹介いたしましょう。

 

北海道函館市:垣ノ島A・B遺跡~紀元前7,000年(約9,000年前)

みなさんもご存じの通り、高級な器や重箱には『漆』が活用されていますが、漆の歴史の調べてみると、紀元前7,000年(約9,000年前)においてすでに使われていたことが分かっています。

 

漆とはウルシの木の樹液から精製したもので、塗料や接着剤の役割として活用されており、耐久性や耐水性、耐熱性、防腐性に優れていると言われています。

 

かつて、漆器は中国で見つかった紀元前5,000年前(約7,000年前)のものが最古であるとされていましたが、北海道函館市で見つかった副葬品は紀元前7,000年のものであると言われています。

 

この遺跡は函館市(旧南茅部町)の『垣ノ島A・B遺跡』と呼ばれるもので、世界最古の漆製品が出土されたことによって大きな注目を集めました。

 

垣ノ島A遺跡では、大型の竪穴式住居が発掘されており、住居群とともに子どもの足跡が発見され、漆製品としては高さ12㎝程の注口土器(ちゅうこうどき)が見つかっています。

 

この注口土器は、黒漆をベースに赤漆で仕上げされており、縄文時代後期のものであるにもかかわらず、とても綺麗な状態で保存されています。

 

垣ノ島B遺跡では、漆の土坑墓から漆の副葬品が出土しています。

 

中でも『漆製品の肩当て』は、お墓に祀られている死者とともに埋葬されている副葬品であり、軸糸を漆で染めたものであることが分かっています。

 

参考:北海道『北の縄文 - 遺跡紹介:垣ノ島A・B遺跡

 

石川県七尾市:三引遺跡~紀元前6,000年(約8,000年前)

三引遺跡は石川県七尾市にある遺跡であり、発見された縄文時代初期の貝塚集落から、多数の漆器や竪櫛が発掘され、色の活用が見られることで知られています。

 

木製の赤色漆塗りの竪櫛が出土されており、漆器には、赤・黒・黄色など、複数の色が使用されています。

 

これらの色は、化合物として天然の鉄分や銅分を使用し、赤は鉄分、黒は炭素、黄色は銅分をこれらの顔料を漆に混ぜて塗ることで、美しい色の漆器が作られました。

 

また、竪櫛にも色の活用が見られています。

 

漆で加工された木材を細かく削り出したもので、赤・黒・黄色の顔料が使用され、美しい色彩を表現しています。

 

この竪櫛は紀元前6,000年(約8,000年前)ごろに作られたものであることが分かり、垣ノ島A・B遺跡で見つかった副葬品とともに、世界最古級の漆器であるとされています。

 

しかも、漆は4層に塗り重ねられていて、中国で出土された同時期の漆器よりも高度な技法を活用されていたことが分かっています。

 

三引遺跡から出土した漆器や竪櫛は、その美しさから、縄文時代の漆工芸の精緻さを示す代表的な遺品とされており、美意識や文化的表現を追求していることがうかがえます。

 

参考:石川県埋蔵文化財センター『七尾市 三引遺跡(PDF資料)

 

青森県八戸市:是川遺跡~紀元前1,000年(約3,000年前)

青森県八戸市の南東部の新井田川沿いには、『是川(これかわ)遺跡』と呼ばれる縄文時代の遺跡が見つかっており、国の史跡として指定されております。

 

東京ドームの7個分もある広大な遺跡であり、5千点を超える遺物が発掘され、特に漆によって美しく仕上げられた多数の土器や土偶などが見つかっています。

 

漆製品の中には遺存状態がとても良いものも多数あり、木を削って漆が施されている『木胎漆器』をはじめ、籃胎漆器・弓・櫛など土器や土偶だけではなく、生活道具も含んでおり多種多様です。

 

いずれの漆製品においても、黒漆のうえから赤漆を重ね塗りする技法が取られており、この時代においてすでに高い水準の技術があったことが分かります。

 

現代に発掘された漆製品が良好であるということからしても、漆による塗装がわが国で誇れる技術であると胸を張って言えるでしょう。

 

参考:青森県八戸市『是川遺跡

 

 

弥生時代から紀元後初期ごろ~鉛を活用した顔料が登場

時代 塗料の歴史 時代背景
3世紀ごろ 『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』

赤色、青色、黄色の採色についての記述あり。

 

弥生時代

邪馬台国

卑弥呼

5世紀後半 雄略天皇の時代に『シロキモノ』と呼ばれる、おしろいによって化粧していた。
6世紀ごろ 法隆寺の建立 仏教伝来
7世紀ごろ 『古事記』『日本書紀』

赤 ・ 白 ・ 青 ・ 黒の記述あり。

塗料メーカー リペイント匠 外壁塗装

弥生時代からの日本では、縄文時代から受け継がれてきた漆の技術に加えて、百済から伝わってきた鉛を顔料にした塗料が登場しています。

 

鉛を主成分にした鉛丹は鮮やかな朱色であり、古い神社や仏閣を見ると朱色が多いため、イメージできるのではないでしょうか。

 

 

魏志倭人伝~3世紀ごろ

3世紀ごろに中国で作られた歴史書である『三国志』に収められている『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』において、色についての記述があります。

 

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とは、中国の東方に住む民族について記載されている箇所の中で『倭人』、つまり日本人について書かれている部分になります。

 

この中で、赤色、青色、黄色を活用していたという記述があり、色の歴史においては最古のものであると考えられています。

 

赤色については、上記でもお伝えした土器への彩色として始まったもので、この書物の中では『朱』、つまり朱色(しゅいろ)として表現されています。

 

青色については、入れ墨を入れるための染料として、墨や藍(あい)が使用されたと記述されています。

 

藍とはタデ科の植物から取った色ですが、中国にも多く存在していた植物であり、日本でも各地にみられ、奈良時代になると藍染が盛んになっています。

 

黄色についてはショウガ科の多年草が染料として使用されており、弥生時代に入れ墨の習慣として伝わってきたという説があります。

 

さらには、邪馬台国の卑弥呼が魏に贈った『鉛丹(えんたん)』についての記述があります。

 

鉛丹とは鉛(四酸化三鉛)を主成分にした赤色の顔料のことであり、橙赤色をしているのが特徴で、平安時代の建物で朱色をしているのは鉛丹が活用されているためです。

 

シロキモノ~雄略天皇の時代~5世紀後半

塗料とは少し離れますが、化粧の歴史はとても古く、中国においては3000年以上も前から活用されていたことが分かっています。

 

日本においては、雄略天皇の時代、つまり5世紀後半ごろに『シロキモノ』と呼ばれる、おしろいが使われていたことが知られています。

 

このおしろいは、鉛白や水銀などを原料にしたもので、鉛中毒となるような有害なものだったようです。

 

ただ、鉛を原料としたおしろいは、被覆力がとても良いとのことで、明治時代くらいまでどの国でも使用されていたことも知られています。

 

法隆寺の建立~6世紀ごろ

6世紀の半ばごろの日本には仏教が伝来し、600年台はじめには法隆寺が建立されました。

 

寺院建築をはじめとして、仏像や調度品などいたるところに漆が活用されており、さらには丹塗り(にぬり)と呼ばれる、鉛を主成分にした顔料が使われています。

 

丹塗りは、鉛丹に硫化水銀を加えたものによって塗装される技術であり、百済からの仏教伝来とともに伝わってきたと考えられており、鮮やかな朱色が特徴となっています。

 

古い神社や仏閣において朱色の建物が多いのは、丹塗りが主流であったからだと考えられます。

 

もともと中国において朱色はとても崇高な色であったために、この時代の日本においても、権威の象徴として活用されています。

 

日本神話『古事記』『日本書紀』~7世紀ごろ

日本神話と呼ばれる『古事記』『日本書紀』においては、さまざまな神々の物語の中で、赤 ・ 白 ・ 青 ・ 黒の4色が活用されています。

 

特に形容詞としても色が活用されているのが特徴で、『アカシ(あかい)』『シロシ(しろい)』『アオシ(あおい)』『クロシ(くろし)』といった使い方がみられます。

 

そのことから見ても、これらの色が特別だったことを物語っており、基本の色であると考えられています。

 

なお、中国においては、これら4色に加えて黄色を加えた5色が基本の色彩として伝わっていますが、黄色がなかったのではなく、赤色に含まれていたという説があります。

 

 

奈良時代~平安時代、鎌倉時代、安土桃山時代~さまざまな彩色技術が登場

時代 塗料の歴史 時代背景
694年~710年ごろ 高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村)

鮮やかに彩色された壁画。

藤原京
710年~ 銅製品・鉄製品・ガラス製品・漆器・瓦など

※平城宮内・平城京内の官営工房跡において出土。

 

平城京(710年)

※藤原京から遷都。元明天皇。

754年 奈良の大仏

※水銀「丹生(にゅう)」の活用、銅「緑青(ろくしょう)」の活用

7世紀末、8世紀初頭ごろ 長登銅山(山口県美祢市の秋吉台南東)において、岩絵具の材料として緑青の採掘が行われる。
1037年~1040年 能勢採銅所(大阪府能勢町)

銅座(銅の鋳造する場所)の設置。顔料となる銅・紺青・緑青の製造

平安時代
1200~1400年ごろ 襖、障子、番傘、表具、製本への布貼り、紙貼りのために鹿毛、猪毛による糊刷毛が盛んに使われ始めた。 鎌倉時代~室町時代
1568年~1582年 『「御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり』~(信長公記) 安土桃山時代

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弥生時代を過ぎて、藤原京・平城京の時代になってくると、鮮やかな彩色技術が登場するようになり、特に有名なものに『高松塚古墳』があります。

 

水銀や銅なども活用されるようになり、安土桃山時代になると金箔のうえに絵を描く、濃絵(金碧濃彩)と呼ばれる手法によって現代にも伝わっています。

 

 

高松塚古墳(694年~710年ごろ)~彩色された壁画の発見

高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村に存在する古墳のことで、鮮やかに彩色された『西壁女子群像』と呼ばれる壁画が有名です。

 

この古墳は、藤原京時代の694年〜710年ごろに造られたものであるとされており、1972年に壁画が発見され、かなり鮮やかに彩色されていることから注目を集めました。

 

この壁画で活用されている顔料は多岐にわたります。

 

  • 赤色:(丹砂、鉛丹、べんがら)
  • 黄色:(黄土)
  • 緑色:(緑青)
  • 白色:(胡粉)
  • 黒色:(炭素)
  • 金色:(金箔)
  • 銀色:(銀箔)

 

などであることが分かっており、これらの顔料は江戸時代になるまで同じように活用されてきたことから、かなり優れた技術を持っていたと言えるでしょう。

 

赤土や黄土などを集めるために、かなり広範囲から採取した土が活用されたようです。

 

また、当時の様子を知ることができる『正倉院文書』には、これら顔料についても詳細に記されており、上記のほかにも『空青』『白青』『金青(紺青)』『雌黄』『紫土』『金墨』『金泥』『銀泥』『白土』『紫鉱』『鉄精』『藍花』『赤土』といった顔料がありました。

 

平城京(710年~)~銅製品・鉄製品・ガラス製品・漆器の出土

藤原京から遷都した平城京では、平城宮内や平城京内の各所に官営工房が設置され、銅製品・鉄製品・ガラス製品・漆器の工房跡が見つかっています。

 

漆器工房では、漆刷毛(うるしばけ)の初期段階のものと考えられる、人毛を利用した刷毛が製造されていたことが分かっています。

参考:奈良市ホームページ『工房×工場

 

奈良の大仏(752年)~丹生・緑青の活用

奈良の大仏は、正式には『東大寺盧舎那仏増(とうだいじるしゃなぶつぞう)』と呼ばれるもので、東大寺大仏殿のご本尊を指しています。

 

1180年と1567年に2回焼けてしまい、その都度修復されているのですが、最初に造られたものと、その後に修復された際での補修方法が異なっています。

 

最初に作られた際には「丹生(にゅう)」と呼ばれる水銀や金が多く活用されており、大仏を金メッキするために使われていたようです。

 

修復後においては、「緑青(ろくしょう)」と呼ばれる銅が活用されており、現在に至ります。

 

ちなみに鎌倉の大仏においても緑青によって造られています。

 

長登銅山(7世紀末、8世紀初頭ごろ)~緑青の採掘

現在の奈良の大仏、鎌倉の大仏には「緑青(ろくしょう)」と呼ばれる銅によって塗装され、特有の色が施されていますが、長登銅山によって盛んに採掘されていたのが知られています。

 

緑青とは、岩絵具(いわえのぐ)と呼ばれる、銅を砕いて粒子状にした絵の具のことで、絵画、彫刻、工芸、建築などに用いられている伝統的な顔料のことを言います。

 

長登銅山は山口県美祢市の秋吉台南東で栄えた銅鉱山であり、奈良の大仏が造られた時代においては銅の産地として知られており、大量の銅が活用されました。

 

ちなみに長登銅山の操業は、衰退と隆盛を何度か繰り返し、1960年の閉山まで続けられてきました。

参考:ウィキペディア『長登銅山

 

刷毛の歴史(1200~1400年ごろ)~鹿毛、猪毛を使った糊刷毛

刷毛は、現代の塗装においても活用される道具ですが、縄文時代では刷毛の原型が、奈良時代では漆刷毛の初期的なものが活用されていました。

 

1200年ごろからシカやイノシシの毛を活用した糊刷毛が使われるようになりました。

 

刷毛は中国から伝わってきたと言われていますが、日本に伝わってから改良され、日本独自に和刷毛として用いられてきました。

 

襖や障子、番傘などといった生活で活用する用具を作るための道具として用いられてきたことが知られています。

 

ちなみに一般的に刷毛が普及したのは江戸時代と言われており、刷毛職人が京都に存在したことが記録に残っています。

 

障壁画(1568年~1582年)~濃絵(金碧濃彩)の手法

『「御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり』

 

これは、織田信長が入京したあたりから、本能寺の変までを記した『信長公記』にある一説で、濃絵(金碧濃彩)について記されているものだと言われています。

 

濃絵(金碧濃彩)とは、金箔のうえから絵を描く手法のことで、今までには見られなかった、きらびやかな絵画が描かれるようになりました。

 

時代でいうと安土桃山時代になりますが、この時代は30年ほどしかありませんが、『唐獅子図屛風』『洛中洛外図屛風』など有名な絵が現代まで残されています。

 

 

江戸時代~現代にも受け継がれる技術、ペンキ塗りの始まり

時代 塗料の歴史 時代背景
1636年(寛永13年) 日光東照宮~栃木県日光市

※朱土(しゅど)と呼ばれる赤色顔料を活用される

江戸時代
1600年~1800年ごろ 刷毛職人の誕生

※刷毛職人が京都に現れ始め、江戸にも見られるように→江戸刷毛「万金産業袋」。

浮世絵の色彩

※紅花、藍、藤黄など植物系の染料が浮世絵に活用されるようになる。

顔料の輸入

※丹砂・緑青・石青・雄黄・黄丹・藤黄・丹土・コンゼウ・キリンケツなど

1680年~1700年ごろ 化粧の習慣が始まる

※鉛白 ・鉛丹の活用

1707年(寛永4年) べんがら(弁柄)の創製が始まる~岡山県吹屋

※赤褐色の建物

1853年(嘉永6年) ペンキ塗装の始まり

※塗銀初代、町田辰五郎(現在の塗装会社、株式会社櫻井)

ペリー来航

塗料の歴史 外壁塗装 リペイント匠

江戸時代になると、彩色の技術もかなり高度となり、現代にも受け継がれる技術が見られるようになります。

 

この時代は鎖国時代であり、日本で賄えない顔料については輸入に頼らざるを得なかったのですが、一部の国との貿易だったために一部の顔料は貴重だったようです。

 

また、1853年には、日本で初めてのペンキ塗装が始まっています。

 

日光東照宮(1636年)~朱土の活用、高い漆塗りの技術

日光東照宮は、1636年(寛永13年)に江戸時代の三代将軍徳川家光によって造替されたもので、令和2年には大修理が行われ注目されました。

 

色については『朱土(しゅど)』と呼ばれる黄土を焼いて作った赤茶色の顔料を塗装材料の一つとして活用されたことが、『寛永造営帳』や『塗師方本途直段』,『久能経営 記一』といった記録に残されています。

 

ほかにも、古代から伝わる『漆塗り』の技術が随所に見られ、近年の大修理においては、江戸時代と同じ技術を用いて行われたようです。

 

木彫像には有名な『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿の彫刻をはじめ、おびただしい数の彫刻が見られています。

 

鎖国時代と顔料(1600年~1800年ごろ)~顔料の輸入

江戸時代には鎖国によって、開国するまで300年ほど長崎と貿易が続いており、輸入品の中でも顔料は重要な品だったようです。

 

この時代に長崎に輸入された顔料には、『丹砂』『緑青』『石青』『雄黄』『黄丹』『藤黄

』『丹土』『コンゼウ』『キリンケツ』などといったものがあります。

 

江戸刷毛(1732年)~現代に受け継がれる貴重な刷毛

刷毛の歴史はとても古く、その原型となっているものは縄文時代から見られているのですが、江戸時代になると京都を中心に刷毛職人が現れています。

 

刷毛職人は江戸にまで広がりましたが、当時の江戸では当初、徳川吉宗が将軍のころに鉄砲に溜まる火薬のカスを掃除するために活用されていたようです。

 

江戸で有名だった刷毛師が作っていた刷毛が評判となって、襖や屏風、漆器を塗るための専用の刷毛を作るようになりました。

 

1732年に発行された『万金産業袋』には、さまざまな刷毛が紹介されており、その中には『江戸刷毛』という名称が登場しています。

 

江戸刷毛は現代にも受け継がれており、経師刷毛、染色刷毛、人形刷毛、漆刷毛、木版刷毛、白粉刷毛、塗装刷毛の7種類が指定されています。

 

江戸時代の化粧品(1680年~1700年ごろ)~鉛白 ・鉛丹の活用

江戸時代になると庶民にも化粧が習慣となり、鉛白 ・鉛丹といった鉛を活用した化粧品が使われていました。

 

特に、化粧をよく活用していた上流階級の中には、鉛中毒の症状が見られるようになったという記録が残っています。

 

当時は日本だけではなく世界中において化粧品として鉛を活用されてきましたが、日本では明治33年に鉛の化粧品利用は禁止されることになりました。

 

べんがら(弁柄)の創製が始まる(1707年、寛永4年)

1707年には、岡山県吹屋において『べんがら(弁柄)』と呼ばれる、酸化鉄の赤色顔料の創製が始まりました。

 

もともと日本では、インドのベンガル地方のものを輸入していたのですが、岡山県吹屋(現代の岡山県高梁市)の鉱山において造られ、伊万里焼や輪島塗などといった器に使われています。

 

また、当時の岡山県吹屋の家屋には、赤褐色の建物が見られますが、これらは木材をベンガラで塗って造られたことが知られています。

 

ペンキ塗装が始まる(1853年)~塗銀初代、町田辰五郎(株式会社櫻井)

1853年になるとアメリカのペリーが浦賀沖に来航し、日本の開国を求めることになりますが、これがペンキ塗装の歴史の第一歩となります。

 

ペリーは日米和親条約調印のために二度の来航を果たし、調印するための応接室を浦賀や下田に建設する予定になっていました。

 

ただ、津波の危険があったために武蔵神奈川宿に設置されることになり、外国人と談判する場所になることから、西洋風に仕上げられることになりました。

 

そこでペンキ塗装が必要となり、江戸中の塗工職人の中から町田辰五郎に白羽の矢が建てられたのです。

 

町田辰五郎氏は、現代の塗装会社である株式会社櫻井の創業者で塗銀初代として知られています。

参考:株式会社櫻井『歴史・沿革1

明治時代~塗料の国内での製造が始まる

時代 塗料の歴史 時代背景
1868年 築地ホテル館の開業~築地船板町の軍艦操練所の跡地(現 中央卸売市場の立体駐車場あたり)

※洋風建築で鮮やかな彩色がペンキ塗り(木部緑色ペンキ塗)によって施されていた。

明治元年。

1867年(慶応3)大政奉還によって江戸幕府が倒れてしまう。

1868年(慶応4)1月 鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争が始まる。5月には江戸城が開城、10月には明治天皇即位大礼が行われ、元号が慶応から明治となった。

1869年 横須賀造船所にわが国最初の塗装工員養成所である『塗粧職工教育学校』が設置される。 1869年の明治を迎えるに際して、江戸が東京に名称変更され、首都として定められることになった。

当時は、平安京から続いた都である京都とともに、東西両京とされていたが、この年に政府は京都から東京に移されることになった。

海軍に海軍塗師(塗装管理者)が配置される。 太政官を最高機関として政治を行なう制度として『太政官制』が施行され政府機構が成立。
1871年 横浜毎日新聞に『ペンキ』という言葉が用いられる。 行政改革として『廃藩置県』が行われている。それまで『藩』が地域政治を取りまとめてきたが、藩を廃止し、府と県が置かれるようになった。さらに府県には庁、知事が配置されている。ちなみに府は東京府、京都府、大阪府の3つであった。
1872年 ペンキ塗小便所の設置~東京・横浜

※ペンキ塗りされた小便所(トイレ)として注目される。

新橋・横浜間の鉄道が開通。

 

富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が設置。

 

福沢諭吉『学問のすすめ』の刊行。

1874年ごろ 堅練りペイントの製造技術研究の始まり~東京開成学校(現・東京大学)

ドイツ人教師ワグネル博士、茂木春太、茂木重次郎らによる。

1873年、徴兵令が陸軍省より発布され、国民の兵役義務を定めている。徴兵規則によって、各地域に一定の割合で徴兵されることになった。何度か改定されており、1889年にはすべて改正されている。1945年に兵役法が廃止されるまで続くことになった。
1875年 ペンキの販売広告が出るようになる。

※『安全火留メ石炭油』『ペンキ油』(横浜毎日新聞)

※『ペンキ類の販売』(三番商会)

「平民苗字必称義務令」が布告されることによって、平民は苗字を名乗ることが義務付けされている。

 

京都市に同志社英学校(現 同志社大学)を開学。

1876年 『含浸瀝青綱具』の販売開始~横須賀造船所 毒薬・劇薬取扱規則公布
1878年 酒精ワニス(セラミック、樹脂などをアルコール、テレメン油などの溶剤に溶かしたもの)の国産化が始まる。

家具塗装には、セラックニスと呼ばれる酒精ワニスが活用された。

郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の三新法が公布された。これによって、日本ではじめて統一的な地方制度が創設されることになった。地方税の徴収、選挙権・被選挙権の付与など。
1879年 中国人ペンキ業者が組合を結成。

※三菱造船所の仕事を独占したと報じられる。

大阪で朝日新聞が創刊されている。1881年には東京朝日新聞が発刊された。全国で朝日新聞として統一されたのは1940年。
「亜鉛華製法」の特許取得

※白粉に含まれる鉛が有害であったため、その代用として亜鉛華の精製が行われるようになった。この特許は1881年に創立された共同組合光明社(現 日本ペイント)の初めての特許として知られている。

琉球藩を廃止し、『沖縄県』が設置される。これによって450年余り続いた琉球王国が終焉し、沖縄県となった。
共同組合光明社が亜鉛華製法において、品質が輸入品と同等であると認められ、伊藤博文卿から『製薬免許之證(第 202 号)』が与えられた。 サントリー(現・サントリーホールディングス株式会社)創業者である鳥井 信治郎が誕生。13歳で丁稚奉公に出た商店で洋酒を扱っており、その経験を活かして1899年に鳥井商店を創業。現在のサントリーとなる。
1880年 ペンキの国産化に成功したと藤田重次郎(大和屋)が東京日日新聞に広告。

亜鉛華・諸色油塗料の再広告も行っている。

ペンキの国産化については1明治時代から活発となり、塗装現場で希釈する必

要のない溶解塗料「塗具」を開発、塗料が普及するきっかけとなった。

大蔵省印刷局で人工顔料によるペンキが試作されるようになる。ただ品質が悪かったとのことで、1882年に製造中止となっている。 大蔵省紙幣司は1871年に創設。当時はまだまだ印刷技術が未熟であったため、紙幣の製造はドイツやアメリカに依頼していた。そのため紙幣の国内製造が強まっていた。
1881年 日本初の塗料工場、共同組合光明社(現 日本ペイント)の創立~東京三田

※茂木春太・重次郎兄弟による。

当時、国内での塗料技術や科学技術は、国際的な水準でみるとかなり低かったが、光明社の創業によって近代に続く塗料工業の礎を築いたと言える。
第 2 回内国勧業博覧会への出品(共同組合光明社)~東京上野公園において。亜鉛華と堅練り塗料ならびに色見本額を展示し、様式塗料の国産化を社会一般に知らしめることになった。 光明社では、色物ペンキ練用「手廻しロールミル」が活用されており、1日に3人がかりで60kgものペンキが製造されていた。
1882年 白鉛興業社(白鉛ペンキメーカー)設立~秋田 日本銀行の開業。
土瀝青商会(アスファルト採掘業)設立~秋田 日本初の動物園『上野動物園』が開園した。
1885年 漆製船底用錆止め塗料「堀田錆止塗料及ビ其塗法」を発明し、特許出願

※漆を利用した錆び止め塗料。堀田瑞松による。わが国の特許第1号となった。

初代内閣総理大臣、伊藤博文が就任。それまでの太政官制度が廃止され、新たに内閣制度が創設されている。
漆特殊塗料工場(現 日本化工塗料(株))の創業。錆び止め塗料の販売の開始。 官営鉄道の運営母体がそれまでの『工部省鉄道局』から、内閣所属『鉄道局』へと改組された。
1886年 共同組合光明社(現 日本ペイント)が石油エンジン動力ミルを購入 ノルマントン号事件

※イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が紀州沖で座礁沈没。

皇居造営に共同組合光明社(現 日本ペイント)の白ペンキが献納されている。 アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートンがコカ・コーラを初めて製造し、発売を開始した。
1887年 東京絵具染料問屋組合設立 東京綿商社(現カネボウ)設立
1888年 阿部ペイント製造所の創立~大阪

※1929年に大日本塗料株式会社に大阪工場を買収

東京火災保険(現 安田火災)設立
1889年 学習院へ白鉛が搬入されている。 大日本帝国憲法発布
1896年 共同組合光明社が東京南品川に工場を新築移転(現東京事業所)

※光明合資会社と改称。

第1回夏季オリンピックがアテネで開催される。参加国は14か国で、参加者は245人だった。
1897年 「亜鉛華精製法」の特許を取得する(特許第2842号)。「亜鉛華精製法」の権利の範囲を拡大するため「改訂特許」を出願している。

※茂木重次郎より。

京都帝国大学(現 京都大学)が創立される。帝国大学は東京帝国大学(現 東京大学)に次いで2番目。
光明合資会社が、塗料の配合技術を表した『塗料調合法』の文献を作成。当時の塗料の配合技術で重要なことは分離沈殿防止であると考えられていた。特にワニス分の多い溶解塗料では問題が多かったため、堅練り塗料の製造で習得した技術を活かし、成功している。 日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現 みずほ銀行)が日本勧業銀行法に基づいて設立、仮営業所で営業開始。
日清戦争での軍用品献納によって東京府知事より褒状受領となる~光明合資会社 医師の志賀潔が赤痢菌(Shigella flexneri)を発見、「細菌学雑誌」で発表している。
1898年 日本ペイント製造株式会社の設立~商標「小槌」の制定

※1927年に日本ペイント株式会社に改称となる。

大隈重信が第8代内閣総理大臣に就任。日本初の政党内閣となった。
1900年 日本ペイントが、約100種類にも及ぶ国内外のワニスの比較テストを実施。は酸性白土による脱色

法を導入して漂白作業の能率化にも成功。

有害性着色料取締令が発令される。
1901年 神戸ボイル油株式会社(※現 神東塗料株式会社)の創業〜神戸市灘区。 桂太郎が第11代内閣総理大臣に就任。
川上保太郎(現 川上塗料株式会社 創設者)が、国産初のエナメル・ワニス製造、販売を開始。 ノーベル賞の第1回授賞式が開催される。(スウェーデンのストックホルム)アルフレッド・ノーベルの5回目の命日にあたる日が選ばれている。
神戸ボイル油(現 神東塗料株式会社)の創業。
1904年 「塗料用鉛丹」の特許出願

※茂木重次郎より。

日露戦争が勃発(~1905年)
1905年 日本ペイント大阪工場の操業開始~大阪市外鷺洲村。茂木重次郎が炉過機の特許を出願する。 日露講和条約(ポーツマス条約)が締結。

日英同盟(第2次)調印。

1906年 日本ペイントによる船底塗料研究の開始。船底塗料研究のため技師長である岩村円が欧米へ派遣されている。

※農商務省より研究委託される。

年賀状の特別扱いが制度化される。年賀状自体は1899年に始まり、1905年には全ての郵便局で特別扱いされるようになった。
1908年 川村インキ製造所(現DIC)の創業~東京市本所(現墨田区)

※創業者・川村喜十郎

鉄道院の設置。内閣直属で国有鉄道の運営と私設鉄道などの監督とを一元的に管轄できるようになった。
1910年 川上塗料製造所の創業~大阪市西成区

※創業者 川上保太郎

韓国併合条約の調印。条約では、韓国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲与することを定めている。
エナメル代用の新塗料「モテキ塗料」の発売開始~日本ペイント 洋菓子『不二家』が横浜市元町に創業。同年12月にはクリスマスケーキが販売された。
1911年 日本ペイントが船底防穢塗料の国産化に成功し、特許出願している。。 英国の豪華客船『タイタニック号』の進水式が行われる。翌1912年4月15日未明に北大西洋を航海中に沈没し、約1500名もの乗員乗客が命を落としている。

 

明治時代になると、塗料工業が急激に進化し、それまで輸入に頼ってきた塗料の国産化が始まるようになります。

 

その波に乗って、共同組合光明社(現 日本ペイント)が創立するなど、明治時代には約30社ほどの塗料メーカーが存在したようです。

 

この時代は、近隣諸国などとの関係から富国強兵によって経済の発展と軍事力の強化が図られ、国家の近代化を目標として産業全体が発展しました。

 

そのことが、塗料の発展にも大きな影響を及ぼすようになりました。

 

堅練りペイントの製造技術研究の始まり(1874年ごろ)

それまでの塗料は、輸入されたものを活用して施工されていましたが、堅練りペイントの製造技術研究が始まるようになり、1800年代後半からは製造ができるようになっています。

 

堅練りペイントの製造技術研究においては、1874年に東京開成学校(現 東京大学)において、ドイツ人教師のワグネル博士をはじめとして、助手であった茂木春太、茂木重次郎(茂木春太の弟)らによって行われました。

 

研究途中に茂木春太が亡くなることになりますが、茂木重次郎は白色顔料である亜鉛華塗料の開発・実用化に成功しています。

 

1879年には、「亜鉛華製法」の特許を取得していますが、現 日本ペイントにおける最初の特許であると言われています。

 

 

共同組合光明社(現 日本ペイント)の創立(1881年)と塗料開発について

1881年(明治14年)、日本で初めての塗料製造会社である「共同組合光明社」が、茂木春太と重次郎の兄弟によって、東京市芝区三田(現 港区芝)に設立されました。

 

光明社は、現在の日本ペイントホールディングス(株)であり、明治時代には約30社ほどの塗料会社の創業が見られています。

 

当時の日本は富国強兵が進められており、海軍において造船業と同時に塗料産業においても重要視されていたこともあり、塗料の開発が活発に行われました。

 

そのため、光明社の設立においても、船舶向け塗料の国産化のために、海軍からの全面的な支援があったことが知られています。

 

当時、化粧が一般的なものとして普及されはじめ、芸者や歌舞伎役者が『おしろい』を活用されていましたが、鉛を使ったもので健康被害が問題視されていました。

 

そこで、化学に精通していた茂木春太におしろいの開発を依頼されており、無害な亜鉛華の製造に成功、さらには弟の重次郎によって亜鉛華を活用した塗料の開発に成功しています。

 

当時の塗料は、8割以上は白色であり、光明社においても白色顔料を中心に製造されていました。

 

光明社の創業当時、茂木春太によって製造された亜鉛華は、不純物が多く着色の問題があったっため、重次郎が品質改良に取り組み、当時世界最高となる純度の亜鉛華が開発されました。

 

1897年に「亜鉛華精製法」の特許を取得することになりましたが、当時の白色顔料の中では革命ともいうべき発明として注目されることになりました。

 

ただ、白色顔料が、鉛を使ったものから亜鉛華に変わったものの、塗膜の硬化は鉛の方が優れていたため、亜鉛華塗料は乾燥性に課題を残していました。

 

その性能を改良するため、堅練り塗料の製造で習得した技術を活かし、優れた塗料の開発に成功しています。

 

明治後期には、塗料の製造と販売においては、かなり拡大しており、ロシアや中国にも輸出していた記録が残っています。

 

 

大正時代~塗料メーカーの創業が相次ぐ

時代 塗料の歴史 時代背景
1912年 日本ペイントが「日本船底塗料」の発売を開始している。同年、噴霧式酸化鉛製造法の特許を出願している。 明治45年7月に明治天皇が崩御。大正元年。京都に伏見桃山御陵の建設が決定し、大林組が工事を受注した。
日本漆業研究所が堀田賢三(堀田瑞松の息子)により開所。 大阪通天閣の竣工。土居通夫が理想的娯楽園を造るために、パリのエッフェル塔を真似た「通天閣」の建設を構想した。高さは約75メートルで、入場料は10銭。この初代通天閣は1943年に火災で大破している。
1915年 1908年にオフセット印刷が日本に伝わり、川村インキ製造所がオフセット印刷用インキの研究を開始する。 前年の1914年に第一次世界大戦が勃発し、1915年にはドッガー・バンク海戦、ガリポリの戦いなど激化している。
東亜ペイント製造株式会社(現 株式会社トウペ:大阪府堺市)の創立 冥王星が初めて写真に捉えられる。当時は惑星だと認識されておらず、1930年になって惑星であると発見された。
日本化工株式会社の創立。東京目黒工場において塗料の製造・販売などを手がける。 梁瀬商会(現 ヤナセ)の設立。創業者 梁瀬長太郎。
中国化学工業合資会社(現 中国塗料株式会社)の創業(広島市中区)。船底塗料の製造を開始。 第1回全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会の前身)が開幕する。
1917年 山本窯業商店(現 山本窯業化工)の創業。大阪市北区で煉瓦タイル販売店として事業開始。 主婦向け雑誌「主婦之友」が創刊となる。
1918年 日本ペイントが「亜酸化銅製造法」「グラファイト粉末製造法」の特許を出願 スペイン風邪が翌年まで大流行し、全国で約15万人が亡くなっている。
長島化學製品所(現 和信化学工業株式会社)が静岡県静岡市庵原郡江尻において創業。 アメリカで『ターザン』が公開された。小説「ターザン・シリーズ」の初の映画化作品となった。
関西ペイント株式会社が尼崎市神崎に設立。創業者・岩井勝次郎が資本金50万円で創業。尼崎市神崎は阪神工業地帯の中間地帯で工業が進んでおり、さらに塗料の原料である植物油・天然樹脂などの輸入が盛んであったため、急速に業績が伸びています。 松下電気器具製作所(現 パナソニック)の創業。創業者 松下幸之助。大阪市において。松下幸之助は当時23歳で、22歳の妻むめの、15歳の義弟である井植歳男の3人でのスタートであった。最初に考案した製品は配線器具である「アタッチメントプラグ」。
1920年 関西ペイントによる支那桐油とエステルガムを主成分とする日本初のスパーワニス「ジャパナイト」発売。「仮漆製造法」として特許化され、塗料の国産化のきっかけとなった。 国際連盟が成立。国際紛争を平和的に解決する国際機関として多くの国が賛同しスタートする。日本は常任理事国として加盟し、中心国となった。
石川ペイント株式会社(大阪市淀川区)が石川五郎によって創業。船舶・船底防汚塗料の製造をはじめ、さまざまな塗料の製造販売が行われるようになった。 戦後恐慌。第一次世界大戦が終結し、景気が上向くと見込まれている中での、製品の過剰生産が原因であると言われている。株価が半分から3分の1に大暴落することになった。
1922年 水谷ワニス・ペイント工場(現 水谷ペイント)の創業。 ソビエト連邦が成立。ロシア革命によって社会主義者が政権を握り、それに続いて独立した社会主義国家が相次いで成立したことが背景に。
長島化學製品所が酢酸アミールの製造を開始。 『週刊朝日』『サンデー毎日』が創刊。
1923年 中国化学工業合資会社が中国塗料株式会社に改組。 東京駅前に丸の内ビルディングが竣工。昭和戦前期では最大のビルであり、「東洋一のビル」といわれた。

 

 

 

関西ペイントの創業と塗料開発の歴史について

関西ペイントは、1918年に岩井勝次郎によって設立された塗料メーカーであり、現代においては日本ペイント、エスケー化研とともに、3大メーカーのひとつと言われています。

 

岩井勝次郎は1896年に岩井商店の創業で知られており、日本の実業家として岩井財閥を形成しています。

 

岩井勝次郎は、日本ペイント・東亜ペイントを経て独立した玉水弘を援助するために、関西ペイントを設立することになります。

 

関西ペイントは、創業当初からラッカーの製造に力を入れており、1926年にラッカーの国産化に成功しました。ラッカーは、耐久性と速乾性に優れた塗料で、自動車や家電製品などの塗装に広く使用されています。関西ペイントのラッカーは、当時の塗料メーカーのほとんどが輸入に頼っていた状況の中で、大きな注目を集めました。

 

関西ペイントの創業と塗料開発の歴史は、日本の近代化の歴史と重なっています。創業当時の日本は、明治維新の混乱から立ち直り、近代化を急速に進めていました。その中で、関西ペイントは、日本の産業の発展に欠かせない塗料の製造・販売に取り組みました。

 

関西ペイントは現在、日本で最大級の塗料メーカーです。自動車用塗料や建築用塗料、産業用塗料など、幅広い製品を製造・販売しています。また、海外にも積極的に展開しており、世界でトップクラスの塗料メーカーの一つとなっています。

 

関西ペイントの塗料開発の歴史は、日本の近代化の歴史と共にあります。関西ペイントは、日本の産業の発展を支え、日本の暮らしを彩る塗料を提供してきました。今後も、関西ペイントは塗料の技術開発をリードし、日本の社会に貢献していくことでしょう。

 

参考:関西ペイント『関西ペイント100年の歩み

 

 

昭和~戦争から復興の時代、塗料技術の近代化

時代 塗料の歴史 時代背景
1926年 関西ペイントによる日本初の国産ラッカー「セルバ」 が発売された。今までの塗料にはない、速乾性、光沢、耐久性を備えたラッカーであり、製品のキャッチフレーズとして「待つ間に仕上がるセルバ塗り」と注目された。国内の塗装業の躍進に繋がる年となった。 昭和元年。大正天皇は崩御により、昭和と改元された。ただ、崩御された日が12月25日であるため大半は大正15年で、昭和元年はわずか7日間のみとなっている。
大阪府庁が新築落成。塗料は日本ペイントの『コンクリートペイント』が使用されている。 近鉄あやめ池遊園地が奈良市あやめ池で開業。関西の私鉄である大阪電気軌道が開発した。2004年の閉園まで78年の歴史のある遊園地となった。
1927年 関西ペイントによる技術者に向けてのスプレー塗装の技術指導が実施される。(大阪市此花区に開設した「セルバ塗装研究所」において) 世界初の大西洋単独無着陸横断飛行に成功。チャールズ・リンドバーグはニューヨークを離陸しパリに到着した。
日本化工ペンキ(現 日本化工塗料株式会社)により、建具、家具用ハイスパーワニス販売開始。 関東大震災後の日本では、教訓を活かして鉄筋コンクリート造りが主流となる。3月に竣工された大阪府庁舎においても同様で、当時を代表する近代建築と言われた。
日本ペイントによりフェノール樹脂塗料「コーケン」が発売となる。全国各地でコーケン塗料の講習会が開催されている。 このくらいの時期から合成樹脂塗料が普及し始めている。
中央ペイント(大阪市淀川区)の創業。 米大リーグのベーブ・ルースがシーズン60本塁打の記録を樹立。
北村溶剤化学製品所(現 イサム塗料)の創業。大阪市福島区において。創業者 北村勇。各種工業薬品の販売を開始。 甲子園の第13回全国中等学校野球大会(現 全国高等学校野球選手権大会、いわゆる高校野球)を初めてNHKが実況中継放送。
1929年 鉛粉塗料株式会社(現 大日本塗料株式会社)が、日本電池(株)(現 (株)ジーエス・ユアサ コーポレーション)より分離独立し創業。同年、阿部ペイント製造所(大阪)を買収している。 同年10月24日木曜日、ニューヨーク株式市場の ウォール街で、株価が一斉に大暴落。 「暗黒の木曜日」 と呼ばれている。
中国塗料、船底塗料が商工省の優良国産品に指定される。 阪急百貨店(現 阪急阪神百貨店)の創業。その後、神戸や東京大井、四条河原町など、次々に出店を果たす。
日本特殊塗料合資会社(現 日本特殊塗料株式会社)の創業。創業者、仲西他七。航空機用塗料の開発からスタートし、航空機用塗料「T・T(テー・テー)金属用塗料」を最初の製品として販売開始。航空機の機体の金属化にともない、陸海軍に採用されている。 日比谷公会堂が開設。東京の芸術文化の発信拠点として、国内外のさまざまな著名な演奏家などの公演、催事が開催されるようになった。
1930年 関西ペイントによって油溶性フェノール樹脂の国産化に成功。 東京銀座に銀座三越が開店。三越は1673年に呉服店『越後屋』の開業から約350年の歴史がある。
日本ペイントにより合成樹脂「ベルノン」、アルキド樹脂塗料「ボデラック」が発売となる。 株式会社鹿島組(現 鹿島建設株式会社)の設立。スーパーゼネコンと呼ばれる大手5社のひとつである。
日本ペイントの創業者である茂木重次郎が死去。 米国で世界初のスチュワーデス就任されている。
1931年 辻 巖(ロックペイント株式会社の創業者)が大阪市西淀川区姫島でラッカー塗料の製造を始める。「輸入品より凄い黒がある」と話題に。 満州事変ぼっ発。関東軍によって約6か月で満洲(中国東北部)全土を占領。満州国建国なった。
1932年 長島化學製品所(現 和信化学工業株式会社)が100%印ラッカーの製造・販売を開始。 桜田門事件の勃発。昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件で、昭和の四大事件のひとつと言われている。
大同塗料、大阪市大正区泉尾町で個人創業。創業者、吉治仁代次。 上野駅の新築工事が完成。関東大震災で消失していた。鹿島組が施工主。
カナヱ商会(現 カナヱ塗料株式会社)の創業。創業者、春田武光。 第1回、東京優駿大競走(日本ダービー)が開催。1番人気のワカタカが期待通りに4馬身差を付けて1着となった。
1933年 関西ペイントの東京支店、東京工場開設。 横浜の消防署に日本初の救急車が登場。
神戸ボイル油が東洋塗料製造株式会社と合併。神東塗料と社名変更。 日本が国際連盟を正式に脱退。国際連盟においては、満州の統治権を中国に承認したが日本が反対し、連盟脱退となった。
亜細亜工業株式会社が創業。鉛筆用塗料である硝化綿ラッカーの製造販売を手がける。 ヒトラーがドイツの首相に就任。国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者であったが首相に指名された。現代においても独裁者の典型と言われている。
1934年 関西ペイントが青年訓練所開設。当時の日本では、軍国化を加速させており、国からの要請があった。敗戦とともに昭和20年廃校となった。 フランクリン・D・ルーズベルトが米国の第32代大統領に就任。大恐慌の最中、ニューディール政策と呼ばれる一連の経済改革プログラムを導入し、大恐慌から米国を復興させた。リーダーシップは、米国と世界に大きな影響を与えた。
水谷ワニス・ペイント工場(現 水谷ペイント)が「電気絶縁塗料」をはじめ、「電気絶縁紙布」「消化綿レザ-クロス」の製造を開始する。 石原裕次郎は1934年12月28日に兵庫県神戸市で生まれる。兄は、芥川賞を受賞した小説家の石原慎太郎。昭和を代表する俳優・歌手・タレントとして社会全体に影響を与えた。
日本化工株式会社が現在の日本化工塗料に改称。海軍省監督工場の指定を受けている。 ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなど、全米大リーグの選抜チームが来日。圧倒的な強さであり、米国チームが16戦全勝。ただ、沢村栄治がベーブ・ルースから三振を奪った試合が話題となった。
1935年 日本ペイントが『日の丸絶縁塗料(電気絶縁塗料)』『迷彩塗料』の発売開始。 忠犬ハチ公が亡くなる。20歳。東京帝国大学の農学部獣医学科教授の石川忠義の飼い犬であり、通勤時に一緒に渋谷駅まで行き、夕方に戻ってくるのを待っていたことで知られている。
1936年 鉛粉塗料株式会社が社名変更し、大日本塗料株式会社に改称。旭ラッカー製造所(横浜)を吸収合併し、横浜工場を開設。 東京で日本で最初の緊急電話番号119番が設置されました。当時は火災、救急車、警察の呼び出しに使用されていた。
吉治仁代次が大同塗料株式会社を設立する。 東京地方、54年ぶりの大雪。25センチの積雪を記録。
日本特殊塗料合資会社が日本特殊塗料株式会社へ改組。航空機用塗料の生産に尽力する。 2月9日、愛知県鳴海町において日本プロ野球史上最初の試合が開催。試合は東京巨人軍と名古屋金鯱軍で行われ、10-3で金鯱軍が勝利。
愛知化学工業株式会社(名古屋市南区千年字船方)の設立。愛知時計電機株式会社から化学部門が分離独立して設立された。 長嶋茂雄が2月20日に千葉県佐倉市で誕生。読売ジャイアンツでプレーしたのちは監督を務め、日本一にも輝いている。
大谷塗料、木工塗料専門メーカーとして創業。1950年に株式会社へ組織変更となっている。 2月26日に二・二六事件が勃発。青年将校らが首相官邸や警視庁、陸軍省などを襲撃。日本のクーデター未遂事件として注目された。
1938年 日本ペイントの「ニホンラッカー」ほか3点が、優良自動車部品及び自動車材料として商工省より認定。 この頃から、軍需が最優先されるようになったため、厳しい統制によって塗料工場も軍需で必要な工場だけが残され、大幅に廃止されるようになった。1939年には物価停止令によって、自由に塗料販売ができなくなっている。
1939年 満州において満州国法人日本ペイント(株)が設立。 第2次世界大戦ぼっ発(~1945年)
1940年 台湾に台湾日本ペイント(株)が設立。 日独伊3国同盟条約調印。
日本ペイントの大阪・東京工場が軍需会社に指定されている。 サラリーマンの所得税を源泉徴収することを決定。戦争遂行のために資金が必要だったためだと言われている。
神東塗料、帝国塗料株式会社と合併。 王貞治が東京都墨田区で誕生。長打力と勝負強さから「世界の王」と称された。
愛知化学工業株式会社、『

フェノール樹脂接着剤』の生産開始。

ディズニー長編アニメーション「ファンタジア」が公開。今ではディズニーの代表的な作品の一つとなっている。
東日本酒精塗料株式会社(現 東日本塗料)の創業。東日本地区の酒精ニス製造業者の設備能力を統合して事業開始。 ドイツのベルリンで、日本、ドイツ、イタリアの間で日独伊三国同盟条約が調印。太平洋戦争突入の要因となった。
1945年 関西ペイントの事業所や工場が米軍の空襲によって大規模に被災している。 東京大空襲。広島・長崎へ原子爆弾投下。日本が無条件降伏し太平洋戦争は終結した。
日本ペイントの大阪工場では一部疎開・被爆、東京工場でも被爆している。 吉永小百合が6月13日に東京で誕生。美貌と演技力で多くのファンを魅了。
東日本酒精塗料株式会社が、東日本塗料株式会社に社名変更する。 NHKが戦後初めて歌謡曲を放送。日本は連合国軍の占領下で規制が課されており、歌謡曲の放送は禁止されていた。
1946年 大日本塗料、放電灯工場を建設(平塚)。1977年に照明機器事業部門が分離独立して、ニッポ電機(株)となっている。 日本国憲法が公布。日本社会の再建を目的として、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもと、日本政府によって制定された。
ロックペイント、漆黒のラッカー「ゼットブラック」が完成。 紀伊半島沖を震源とするマグニチュード8.0の南海地震が発生。沿岸部に大きな被害をもたらした。
水性塗料専業の恒和化学工業が創業。水性塗料の生産を開始する。 この頃の東京では、闇市や露店商が数多く見られた。深刻な経済混乱に陥っていたためで、人々が生活必需品を手に入れるための貴重な場所となっていた。
恒和化学工業、『ダイヤペイント』を開発。 長谷川町子の4コマ漫画『サザエさん』が夕刊フクニチ新聞で連載を開始。
カナヱ塗料株式会社の設立。 「リンゴの唄」が戦後初のヒット曲に。明るく前向きな歌詞とメロディーが人々の心を癒し勇気づけた。
丸大産業株式会社(現 ターナー色彩株式会社)の設立。創業者 奥村良治。塗料の販売会社としてスタートする。 映画「はたちの青春」が公開。恋に悩む若者たちの姿を描いた恋愛ドラマ。日本映画で初めてキスシーンが描かれたことで話題に。
伊藤彰朗が戦時中、休眠会社となっていた中央化学工業(株)を復活させ、四日市市朝日町で塗料製造を開始する。(のちのスズカファイン株式会社) 当時の物価は戦争による物資不足やインフレの影響で非常に高くなりました。米1升(1.8リットル)は80円、ラーメン1杯は10円程度ですが、平均的なサラリーマンの月収は300円程度でした。
1947年 丸大産業、社名をターナー色彩化学工業株式会社に改称。同年、水彩絵具および手芸用絵具の『ペンテックス』を発売する。 プロ野球、阪神タイガースが優勝する。最優秀選手が若林忠志、打点王が藤村富美男のタイガース選手に。
1948年 愛知化学工業株式会社、ユリア樹脂塗料「ユーラッカー」の生産・発売開始。 美空ひばり、横浜国際劇場でデビュー。当時11歳。大人顔負けの歌唱力で観客を魅了した。
日本漆塗料株式会社(現 カシュー株式会社)の創業。漆系合成樹脂塗料の製造をスタートする。 文部省が小学校で5段階評価法を導入。従来は2段階評価(合格・不合格)だった。
鈴鹿塗料株式会社(現 スズカファイン株式会社)の創業。創業者 伊藤彰朗。塗料工業会の検査を受けて、正式な登録工場なった。酒精ニスの製造を主として操業開始する。木工用速乾ニス『チヨライト』がヒット商品に。 建設省が、内務省の国土局と戦災復興院を統合して設立。戦後日本の復興と発展に大きく貢献することになる。日本の経済成長を支え、塗料業界にとっても大きな影響を与えることになった。
朝日商会(現 エーエスペイント株式会社)の創業。名古屋市昭和区において。 『東京ブギウギ』空前の大ヒット。人々に明るさと希望を与えた曲となった。
合資会社日亜ペイント工業所(現 日亜ペイント株式会社)の創業。大阪市旭区大宮町。一般塗料の製造販売を手がける。 第1回NHKのど自慢全国コンクール優勝大会が開催。、戦後日本の人々の心に大きな感動を与え、その後も毎年開催されることになった。
東日本塗料、     合成樹脂エマルションペイント『ビコニート』、および接着剤『ニューボンド』の研究開発・販売開始。 警視庁が犯罪専用電話番号「110番」を設置。戦後日本の警察制度の大きな進歩と言われている。
1949年 関西ペイント、東京・大阪の2証券取引所に上場。 中華人民共和国が中国大陸を統一した中国共産党によって建国。
水谷ワニス・ペイント工場が水谷ペイント株式会社に社名変更。 日本で初めてお年玉付き年賀はがきが発売される。1億9600万枚が売れ、大ヒットとなった。
水谷ペイントが油ワニス・エナメル製品、JIS表示許可取得 ビールの自由販売が再開されビアホールが復活。当時のビールの価格は、500mlで150円程度でした。
日本化工塗料が紙加工用塗料「ニッカコート」の販売を開始する。

また同年、日本国有鉄道調達塗料納入資格業者の指定を受けている。

湯川秀樹が日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞。戦後間もない日本にとって大きな希望の象徴となった。
鈴鹿塗料、油性塗料『調合ペイント白』の販売開始。白調(ハクチョウ)との愛称で親しまれるようになった。 日本国有鉄道(国鉄)と日本専売公社(専売公社)が設立。従来の鉄道省の鉄道事業を引き継ぎ、専売公社は、従来の専売局のたばこ・塩事業を引き継いだ。
東日本塗料、塩化ビニール樹脂塗料(ビニコート)を電気化学工業との共同研究により開発。販売開始。
株式会社北村溶剤化学製品所(現 イサム塗料)も商号変更。合資会社北村溶剤化学製品所を吸収合併し、ラッカー製品アートテックスの製造販売を開始。 プロ野球、セリーグ(セントラル野球連盟)とパリーグ(太平洋野球連盟)の2リーグ制になった。
1950年 亜細亜工業、日本国内で初めて『酢ビエマルション塗料』の開発に成功。 京都の金閣寺が放火され全焼。
中国塗料、『船底塗料1号・2号』『ウォッシュプライマー』アミノアルキド樹脂塗料『マーブラックAL』の販売開始。 聖徳太子の肖像が描かれた千円札が発行される。本銀行券としては初めての千円札となった。
大日本塗料、セメント瓦用塗料「スレコート」の販売開始。 第1回日本シリーズが開幕。セントラル・リーグ優勝チームの松竹ロビンスと、パシフィック・リーグ優勝チームでこの年に創設した毎日オリオンズによる対戦となった。松竹が初代日本一に。
日本漆塗料(現 カシュー株式会社)、特許油性塗料「自然乾燥カシュー」の製造を開始する。 警察予備隊令が公布。日本の警察力を強化するために、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本政府に指示したもの。
北村溶剤化学製品所(現 イサム塗料)、合成樹脂塗料の製造販売を開始。 朝鮮戦争が勃発。北朝鮮と南朝鮮の間での紛争が原因で勃発し、アメリカや中国などが参戦した。
1951年 愛知化学工業株式会社、『メラミン樹脂焼付塗料』の販売開始。 日本とアメリカ合衆国で日米安全保障条約が調印される。
鈴鹿塗料(現 スズカファイン)、油性塗料『調合ペイント白』の発売開始。 NHKが第1回紅白歌合戦を放映する。
合資会社朝日商会を設立し、本社を名古屋市高辻に設置。 映画「羅生門」がヴェニス国際映画祭グランプリを受賞する。
合資会社日亜ペイント工業所が株式会社に改組。社名を日亜ペイント株式会社(ニチアペイント)と改称。 500円紙幣が日本銀行によって発行された。
1952年 関西ペイントによって塩化ビニル・酢酸ビニル共重合樹脂系の船底防錆塗料「ビニラ」を開発。性能の高さを評価され、国の造船事業への採用が本格化した。 サンフランシスコ平和条約の締結。、日本は戦争責任を認め、連合国側は日本に対する占領を終了し、国際社会に復帰する機会となった。
辻 巖が個人経営から株式会社ロック塗料製造所(現 ロックペイント株式会社)に改組。 東京都千代田区丸の内にある高層ビル『新丸ビル』が完成。
中国塗料、長期暴露用ウォッシュプライマー『エバボンド』の販売開始。造船工程上の革命と注目された。 プロボクサー、白井義男が世界フライ級のタイトルを獲得した。
1953年 東亜ペイント株式会社が、大阪証券取引所市場第1部に上場。 日本の南西にある奄美大島がアメリカ合衆国から日本に返還された。
日本特殊塗料、自動車用防音・防錆塗料「ニットク・アンダーシール」を開発。防音材メーカーとしての第一歩を踏み出し、鉄道車両にも採用されるようになった。 吉田茂首相が衆議院予算委員会で「バカヤロー」と発言し話題に。衆議院を解散する原因となった。
日本漆塗料、カシュー株式会社に商号変更。 NHKが初めてマラソン大会の実況中継をラジオで行った。
東日本塗料、ポリウレタン樹脂塗料『ウレコート』の研究開発。販売開始。 朝鮮半島の南北境界線を停戦ラインとし、軍事行動を停止することとなった。
山本窯業商店(現 山本窯業化工)が外壁材『セラストン』(大理石モザイク)を考案し特許を取得。砂粒状陶磁器を利用している。 テレビが各家庭に普及していない時代で、各地に街頭テレビが設置され人気となった。
1955年 関西ペイントの多彩模様仕上げ材「ゾラコート」が販売開始。ビル建築においてゾラコート塗装が採用されるケースが増えている。 自由民主党の結成。戦後日本の政界に大きな影響を与えることになった。
関西ペイントの長油性アルキド樹脂塗料「SD調合ペイント」が販売開始。 アルベルト・アインシュタインが死去。76歳。
日本ペイント、『ラッカーニッペ1000及び2000(硝化綿塗料)』『ビニレックス5000(醋酸ビニル系エマルション壁塗料)』『オルガ100(エポキシ変性メラミン・アルキド樹脂塗料)』『パイラック3000(自動車用ハイソリッド型硝化綿塗料)』の販売開始。 ぺんてるクレパス(ぺんてるくれよん)の発売開始。鮮やかな発色となめらかな描き心地が特徴。2015年には、世界で10億本が販売されたと発表されている。
株式会社ロック塗料製造所がロックペイント株式会社に社名変更。 1円硬貨がアルミニウム貨に、50円硬貨はニッケル黄銅貨に変更されて発行。
鈴鹿塗料(現 スズカファイン)、合成樹脂エマルション塗料『スズレン』の発売開始。 「広辞苑」の初版が発行。岩波書店から発行された大型の国語辞典であり、広く一般に使われるように。
四国化学研究所(現 エスケー化研)の創業。大阪市北区において。塗料用廃液溶剤類の蒸留精製、建築用塗料製品の製造販売を始める。創業者、藤井 實。 当時の生活において、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビのことを指して、「三種の神器」と呼ばれていた。
北村溶剤化学製品所、イサム塗料株式会社に商号変更。 後楽園遊園地がオープンし、日本で初めて本格的なジェットコースターが導入された。
1956年 日本ペイント、『ポリエス(ポリエステル樹脂塗料)』『ネオジン(水硬化性防錆塗料)』の販売開始。 国際連合に加盟。国際社会の一員として、平和と安全保障のために活動することができるように。
1957年 水谷ペイントが札幌出張所を開設。新ラッカー工場の建設が完成。 ソ連が人工衛星の打上げに成功。
日本ペイント、『RIRペイント(放射線防禦用塗料)』『オルガ100(自動車用耐久型メラミン・アルキド樹脂系塗料)』の販売開始。 南極大陸に観測隊を派遣し初上陸。昭和基地を開設し日本の南極観測の拠点に。
朝日商会、朝日ソルベント工業株式会社(現 エーエスペイント株式会社)に組織・社名の変更。 長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団。現役時代は「ミスタージャイアンツ」と呼ばれる。
山本窯業商店(現 山本窯業化工)、『セラスキン』(砂粒状陶磁器の吹付タイル)の開発に成功。販売開始。カラーセラミックスの原点と言われている。 100円硬貨が初めて発行される。発行当初は銀貨で、銀の含有量は80%、その後、銀の価格高騰により白銅貨に改められた。
科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)の創業。東京都     大田区大森西において。 この頃から、戦後復興から発展へと変化が見られるように。生活水準も著しく向上した。
1958年 関西ペイントの高級エマルション塗料「ビニデラックス」が販売開始。 東京タワーが完成。高さは333メートルで、東京のランドマークとして知られている。竣工からおおよそ5年周期で塗り替えされているが、11回目からは7年周期に変更された。それまではフタル酸樹脂塗料が活用されてきたが、アルキド樹脂塗塗料に変更となり耐久性が向上したため。
関西ペイントのポリウレタン樹脂塗料「レタン」が販売開始。
日本化工塗料が、陸上自衛隊補給廠の塗料納入業者の指定を受けている。
日本ペイント、『ヘルゴン(水中構造物用防錆塗料)』の販売開始。
大日本塗料が大日本シンロイヒ株式会社(現 シンロイヒ株式会社:蛍光塗料メーカ)」を発足。 当時の皇太子明仁親王が、美智子様と結婚することを発表。
愛知化学工業、アミノアルキド樹脂塗料「アイラック」、レジンペーパー(メラミン樹脂含浸紙)「アイシート」の販売開始。 アメリカ映画「初恋物語」で主役女優が着たドレスの色「モーニングスターブルー」が大流行した。
ターナー色彩化学工業、ターナー色彩株式会社に改称。 『フラフープ』が1か月で80万本売れる爆発的人気に。
1959年 愛知化学工業、レゾルシノール樹脂接着剤「アイチボンドR」の販売開始。 9月26日、伊勢湾台風(15号)で大きな被害に。
菊水商事有限会社(現 菊水化学工業)の創業。創業者、遠山昌夫。名古屋市中区において。「街を明るくしたい」との思いから塗装工事会社として事業開始。 1958年~59年にかけて放映された『月光仮面』がブームに。平均視聴率は40%を記録し、社会現象となった。
1960年 関西ペイントの平塚工場竣工(神奈川県平塚市)。約9万3,000平方メートルであり、関西ペイントの生産体制の強化に繋がった。 日本初のカラーテレビ本放送が開始。当時としては高価な買い物だったが、人々は次々と買い求め、普及が進んでいった。
日本ペイント、『オーデラック(水溶性アルキド樹脂塗料)』『ビニゾール(塩ビゾル塗料)』『ビニレックス5000スーパー(アクリル系エマルジョン壁塗料)』『オルガ100メタリック(自動車上塗りメタリック塗料)』の販売開始。 タカラ「ダッコちゃん」がブームに。ビニール製の空気で膨らませる人形で、黒い肌に大きな目、そしてウインクをする表情が特徴。発売当初から大ヒットし、半年間で240万個を売り上げた。
愛知化学工業、メラミン化粧板「アイカデコライト」の販売開始。 第2次池田内閣が『国民所得倍増計画』を閣議決定。
1961年 関西ペイントの名古屋工場が竣工。自動車工業をはじめとする塗料需要の増大に対処できるようになった。 横浜マリンタワーが開業。高さ134mの電波塔で、横浜港に面した山下公園にあり、横浜のランドマークとして知られている。

2019年から改修工事がはじまり2022年に完成。塗装においては外部側をマリンタワーシルバー、内部側をブラウンオリーブに一新された。機能性の高い塗料が活用され、耐候性に優れていると言われている。

東亜ペイント株式会社が、東京証券取引所市場第1部に上場。
日本ペイント、『日の丸印ホームペイント4種』『オルガ100カラートタン用(メラミン・アルキド樹脂塗料)』『スーパーラック(リフロー型アクリル樹脂塗料)』の販売開始。
山本窯業商店、山本窯業化工株式会社として法人化。
中央ペイントが日本初のエマルションパテ「WDパテ」を発売開始。 女子バレーボールチームがヨーロッパ遠征で24連勝。「東洋の魔女」との愛称に。
1962年 関西ペイント、熱硬化性アクリル樹脂塗料「マジクロン」、アクリルラッカー「アクリック」の発売開始。 後楽園ホールが東京都文京区に開業。プロレスやボクシング、格闘技などの格闘技イベントのほか、コンサートや演劇、イベントなどにも使用されている。
日本ペイント、『ピロックス(家電用エアゾールラッカー)』『ポリウレ(木工・金属下地用ポリウレタン樹脂塗料)』『スーパーラック(自動車上塗補修用アクリル樹 系[樹脂系]ラッカー型塗料)』の販売開始。 東京の人口が世界で初めて人口1,000万人を突破した。高度経済成長の恩恵を受け、世界有数の大都市へと成長した。
日本化工塗料が、プラスチック用塗料「アレックス」および、真空蒸着用塗料「ブライト」の販売を開始している。 ファイティング原田が、日本人として初めてボクシング世界チャンピオンに輝いた。
1963年 日本ペイント、『エポタール(タールエポキシ系重防食用塗料)』『ビニレックス7000(スチレンブタジェン系エマルション壁塗料)』『スーパーラック自動車用メタリック(サーモセッティング型アクリル樹脂塗料)』の販売開始。 東京ヒルトンホテルが東京都千代田区に開業。日本初の外資系ホテルとして注目された。ホテル用の敷地面積約1万㎡を確保し、961年7月に着工した。清水建設が施工した。
カナヱ塗料の本社工場が、防衛庁認定工場となる。 第一次マンションブーム。『区分所有法』の制定によって分譲マンションが資産として認められるようになったため。高度経済成長により、多くの人が所得を増やし、マンションの購入が可能になった。

 

東京オリンピック開催(1964年)も後押しする形となった。

 

このブームをきっかけに、マンションは一般的なものとなり、日本の住宅事情に大きな変化をもたらした。塗料メーカーにおいても、需要が高まっている。

ターナー色彩、国内初の樹脂系絵具『アルファカラー』の発売開始。
朝日ソルベント工業(現 エーエスペイント株式会社)、日本ペイントと業務提携。のちに系列会社に。
菊水商事、菊水化学工業化学工業に社名を変更する。
ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)の創業。東京営業所・大阪営業所を販売拠点として開設。西ドイツ・クノール社より技術導入したセメント系無機釉薬工法を基本に、内・外装用大版美術タイル「ボンタイル」の開発製造を開始
1964年 日本ペイント、『ハイビルドR(塩化ゴム・ハイビルド型防錆塗料)』『コポン(エポキシ樹脂系重防食塗料)』『電着用塗料(ポリエステル樹脂系)』『ロードライン(常乾型道路標示用塗料)』『ニッペジンキ(重防食用亜鉛末塗料)』の販売開始。 日本初の高速鉄道路線である東海道新幹線が開通した。

 

全線開通時の最高速度は210km/h。東京と大阪間の移動時間が4時間から2時間半に短縮され、日本の経済発展に大きく貢献した。

 

オリジナルの塗装は、車体がクリーム、窓周りが青に塗り分けられている。当初は「アクリル樹脂エナメル塗装自然乾燥」で行われている。

大和高分子工業株式会社(現 株式会社ダイフレックス)の創業。
日本特殊塗料、自動車用制振材「メルシート」の販売開始。自動車の走行時の車体フロアの振動を抑え、騒音を減少させるとして注目されることになった。
ターナー色彩、エマルジョン塗料調色剤『ポリカラー』の発売開始。
1965年 ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、『ボンタイル』の屋外現場施工技術の開発に成功、複層仕上塗材(吹付タイル)のルーツとなる。 有楽町駅前に複合商業ビル『東京交通会館」が完成。三菱地所と東京都交通局が共同で建設。地上15階、地下2階建てで、延床面積は約19,700坪。オフィス、商業施設、飲食店などが入っている。
1966年 日本ペイントが、韓国の塗料・インクメーカーである大韓ペイント・インク製造(株)と技術・業務提携。 自動車産業が活発化し、『サニー1000(日産自動車)』『カローラ1100(トヨタ自動車)』が大ヒットした。

自動車の製造は内製化が始まっている。ボディの塗装においてはアクリルウレタン塗料が用いられるようになった。

日本ペイント、『カラートタン用スーパーラックFシリーズ』『パワーコート(アニオン型電着用塗料)』『ニッペホームペイント・ゴールド(つやあり水性多目的塗料)』の販売開始。
大日本塗料、家庭塗料部門を分離し、サンデーペイント株式会社を設立。
日本特殊塗料、屋根用塗膜防水材「プルーフロン」の販売開始。 日本の総人口が1億人を突破。高度経済成長の恩恵を受けた若い世代の増加が主な要因に。高度経済成長期には、日本の経済が急速に成長し、多くの人が豊かになった。結婚や出産の時期が早まり、子供を産む人が多くなった。
愛知化学工業、社名をアイカ工業株式会社へと変更。
鈴鹿塗料(現 スズカファイン)、環境に配慮したエマルション系吹付模様塗料『ラフトン』シリーズを開発。
1967年 中央ペイントが日本初となる水性艶有塗料の発売開始。 東京都渋谷区道玄坂に東急百貨店本店の開店。渋谷の再開発の一環として行われた。
鈴鹿塗料、スズカホームペイント株式会社を設立する。
東日本塗料、エポキシ、ウレタン系塗膜防水材、床塗材『フローン』を研究開発、販売開始。 東京キー局(NHK総合テレビ、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日)でカラーテレビの本放送が開始された。
1968年 日本ペイント、『パウダックスV(ビニル樹脂系粉体塗料)』『スーパーラックSシリーズ(カラートタン用シリコンエステル)』『ナイトライン(加熱型道路標示用塗料)』の販売開始。 霞が関ビルディングが東京都千代田区霞が関において竣工。わが国初となる超高層ビルで、高層ビルの代名詞となった。地上36階、地下3階、軒高147メートルを、着工後33か月で完成させることに成功した。日本の超高層ビル建築の歴史において、大きな転換点となった。多くの新しい技術も導入されている。近代的で洗練された外観から、多くの観光客にも人気のスポットとなっている。
亜細亜工業、『アクリル塗料』の製造開始。
ターナー色彩、耐候性抜群の水性塗料『エースカラー』の発売開始。
1969年 日本ペイントがアメリカ合衆国に本拠を置く、塗料・コーティング製品メーカーであるシャーウィン・ウィリアムズ社と技術提携。 東名高速道路が全線開通した。東京都世田谷区と愛知県小牧市を結ぶ高速道路で、東京と名古屋間の移動時間が大幅に短縮され、日本の経済発展に大きく貢献することとなった。
日本ペイント、『ニッペアクリル(アクリル樹脂自動車補修用ラッカー)』『ハイラバー(塩化ゴム系建築・鉄骨用塗料)』の販売開始。
日本ペイント、『マイカス(雲母状酸化鉄系防食塗料)』『NAD塗料(NAD型アクリル樹脂系自動車用)』の販売開始。 日本銀行が五百円札を発行。五百円札の表には、明治維新の中心人物の一人である岩倉具視の肖像、裏面には、富士山と桜が描かれている。

 

五百円札は、水色を基調とした紙幣であり、偽造防止のための様々な技術が施されている。透かし、凹凸印刷、ホログラムなど。紙幣に透かして見ると文字や模様が浮かび上がる。凹凸印刷とは、紙幣に触ると感じる凹凸のある印刷である。ホログラムとは、紙幣に光を当てると虹色に光る印刷となっている。

亜細亜工業、吹き付けタイル『アルトンE』の販売開始。
科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、ウレタン塗膜防水材「ウレシール」の販売開始。
ヤブ原産業株式会社の創業。東京都文京区において。創業者 藪原昭三。同年、クレーター吹付タイル「モザイクコート」の販売開始。
1970年 亜細亜工業、『プール専用塗料』の開発。 日本万国博覧会が大阪で開幕している。
1971年 日本ペイントが関西ペイントと業務提携。 京王プラザホテルが新宿駅西口に開業。当時としては日本一の高層ホテルとして話題に。地上47階建て、高さ178メートルの超高層ホテルです。客室は1,438室あり、レストランや宴会場、スパ、フィットネスクラブなどの設備も充実している。
日本ペイント、『Hi‐CR(連乾性合成樹脂調合ペイント)』『プラスチック用塗料(日本ビー・ケミカル社製)』の販売開始。
亜細亜工業、『ウレタン樹脂』の製造販売を開始。
ヤブ原産業、斑状吹付タイル「陶化コート」シリーズの販売開始。
1972年 日本ペイント、『            テックロン(金属接着剤)』の販売開始。 奈良の高松塚古境において石室内に鮮やかな色彩の壁画が発見される。天井に天文図、側壁に四神図、そして男女の群像が、天文図には、太陽や月、星、星座などが描かれている。
四国化学研究所(現 エスケー化研)、新しい外装用吹付タイルの開発に成功。
1973年 日本ペイントがフォード・モーター社と非水系アクリル樹脂塗料について、PPG社と水性自動車用塗料について技術提携。 原油価格の高騰によって世界経済が混乱し、第一次オイルショックが発生した。

 

日本の産業は、原油価格の高騰により大きな打撃を受け、塗料メーカーにおいても塗料の原料の供給に大きな影響を与えるようになった。

亜細亜工業、『エポキシ系吹付材』の販売開始。
日本特殊塗料、塗り床材・舗装材「ユータック」シリーズの販売開始。この塗料において”技術のニットク”を印象付けた。
1974年 関西ペイントが水性常温特殊架橋型塗料「アスカ」を発売開始。 塗料製造業が不況業種として指定される。第一次オイルショックの影響により、塗料の需要が減少したことが原因。

 

第一次オイルショックにより、原油価格が急騰。これにより、塗料の原料となる原油やその他の化学物質の価格も高騰した。そのため、塗料の製造コストが上昇し、塗料の価格も高くなった。

 

塗料の価格が高くなると、買い替えが遅れてしまい、塗料の需要が減少傾向に。また、塗料は建物や自動車などの資産の維持費の一部であるため、価格が高くなると、資産の維持費を削減しようとして、塗料の塗り替えを延期する企業が増えた。

日本ペイント、『ニッペタイルラック(タイル状外壁用塗料』『スーパーラックHシリーズ(カラートタン用高分子ポリエステル塗料)』『オーデシリーズ(水溶性各種合成樹脂塗料)』の販売開始。
日本化工塗料が、スイートコーン用の缶内面塗料販売を開始している。
亜細亜工業、『アクリルウレタン塗料』の開発。
中国塗料、軌道用てん充材『CUS』の販売開始。
ヤブ原産業、下地調整材「スーパーパテ材」「スーパーフィラー」、吹付用機械器具「万能ガン器」、「ジャンボガン器」の販売開始。
1975年 水谷ペイントが粉体塗料製造設備を完成させ、『オキシパウダー』 の製造販売を開始する。 第一次オイルショックの影を受け、日本国内で企業倒産が相次いだ。

 

塗料メーカーにおいても、塗料の需要が減少して業績が悪化。苦境に立たされることになった。

 

さらに1978年には第二次オイルショックが勃発し、1980年代初頭にかけて、原油価格が高騰することとなった。塗料メーカーの多くは溶剤がなくなってしまい、パニック状態となった。

亜細亜工業、『エポキシ及びウレタン塗床材』『水性グロスペイント』『弾性アクリルウレタン塗』の開発。
アイカ工業、壁面仕上げ用塗材「ジョリパット」の販売開始。
四国化学研究所(現 エスケー化研)、不燃セラミック塗料、水性エナメルの開発に成功。通産省より重要技術研究開発補助金を受ける。
1976年 日本ペイント、『パーマイト(アルミサッシュ用電着塗料)』『エクセル(熱溶融型石油樹脂系道路標示用塗料)』『CRトタン(合成樹脂系トタン用塗料)』『ニッペブライト(メラミン・アルキド樹脂系低温焼付型)』『ニッペマリンオレンジシリーズ(中・小型漁船用塗料)』『ユービコート(紫外線硬化塗料)』『ニッペルナフレックス(感光性フレキソ版材)』の販売開始。 カナダのモントリオールで夏季オリンピックが開催される。日本は、数多くの選手が参加して、金メダル9個、銀メダル6個、銅メダル10個の計25個のメダルを獲得した。
亜細亜工業、『弾性吹付タイル』の開発。 アップルコンピュータ(Apple)がスティーブ・ジョブズによって設立。
大和高分子工業株式会社(現 株式会社ダイフレックス)、「DD防水工法(X-1工法の原型)」を開発。

特殊シートと塗膜防水材による複合防水工法の開発に成功している。

村上龍がデビュー作『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞受賞。発行部数は2015年の時点で367万部を超えている。
山本窯業化工、ローラー施工による仕上塗材『セラスキンローラー』の販売開始。 子門真人の『およげたいやきくん』が空前の大ヒットに。
ヤブ原産業、カチオン性仲介接着剤「カチオンタイト」の販売開始。 アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦に日本中が熱狂した。
1977年 日本ペイント、『パワートップ(カチオン型電着用塗料)』『ニッペカースプレー(家庭用自動車補修用スプレー)』『ニッペジンキ1000FZ(前処理兼用プライマー)』『nax‐Gutty(アクリル樹脂系2液型自動車補修用)』の販売開始。 円ドル為替レートが円高に急上昇。この円高は、日本の輸出企業に大きな打撃を与え、塗料メーカーにも大きな影響を受けることになった。

 

亜細亜工業、『弾性アクリル塗料』の開発。  スーパーカーブーム。プラモデルや消しゴムが人気に。
中国塗料、長期船底防汚塗料『AF シーフロー』の販売開始。
1978年 日本ペイントがPPG社と水性自動車用塗料について技術提携。 日中平和友好条約が、日本と中華人民共和国の間で締結。
日本ペイント、『ニッペDANタイル(弾性タイル状外壁用塗料)』『ハイスレート(スレートかわら用塗料)』『SPC船底(セルフポリッシュ型船底防汚塗料)』の販売開始。 サンシャイン60が開業。地上60階建て、高さ239.7メートルで、当時は、日本一の高さのビルだった。

 

建装工業(東京都港区西新橋)が外壁塗装を請け負うことになった。建装工業は、そのほかにも新宿センタービル外壁塗装(1979年)、三菱銀行本館塗装工事(1980年)、厚生年金会館(マレーシア)新築塗装工事(1983年)など、多くの高層ビルの塗装工事を手がけた。

 

ヤブ原産業、下地浸透強化剤「浸透プライマー」の販売開始。
1979年 日本ペイント、『水性ニッペワイド(家庭用多目的塗料)』『プレコート(プレコート鋼板用塗料=弱電、鋼製家具用)』『       ニューオルガ(省エネルギー型汎用焼付メラミン樹脂塗料)』『ニューボデラック(速乾型汎用アルキド樹脂塗料)』『nax マイティラック(ポリウレタン樹脂系自動車補修用)』の販売開始。
日本ペイント、『ニッペエポキシ(船舶用エポキシ樹脂塗料)』『水性ニッペワイド・速乾さび止め・建物用(家庭用)』『DANユニ(弾性厚膜型塗料)』の販売開始。 第2次石油ショック。第1次石油ショック(1973年)よりは影響は小さかったものの、世界経済に大きな影響を与えることになり、塗料メーカーは溶剤がなくなってしまう騒ぎとなった。

 

鈴鹿塗料(現 スズカファイン)、国内初の太陽熱反射塗料『クールトップ』の販売開始。
1981年 亜細亜工業、『耐熱無機塗材』を開発。 神戸のポートアイランドでポートピア’81が開幕。
中国塗料、紫外線(UV)硬化塗料『オーレックス』の販売開始。紫外線照射で瞬時に硬化する特性を持っている。 日本劇場が閉館し、48年の歴史に幕を閉じた。老朽化と再開発事業によるもの。
ヤブ原産業、エポキシ樹脂注入カートリッジタイプ「SSSボンド」、スレート屋根塗り替え工法「パーマスレート工法」、天然石樹脂舗装材「アーバンロック」の販売開始。 この頃、校内暴力が社会問題となっている。1970年代後半から徐々に深刻化していたが、1980年代に入ると、暴力事件が全国で頻発するようになった。
1982年 亜細亜工業、『石綿スレート屋根アスベスト封じ込め材及び工法』を開発。 タモリの「笑っていいとも!」が放送開始。2003年には生放送の長寿記録としてギネスに認定。2014年3月31日まで生放送された。
1983年 関西ペイントが速乾型の自動車補修塗料「レタンPG80」を発売開始。 NHK連続テレビ小説「おしん」が大人気に。視聴率62.9%を記録。
水谷ペイントが合成樹脂ワニス、反応設備増強完成。 任天堂がファミリーコンピュータ(ファミコン)を発売。空前の大ヒットに。
亜細亜工業、『ウレタン塗膜防水材用トップコート』を開発。
中国塗料、無公害防汚塗料『バイオクリン』の販売開始。 大阪ターミナルビル(アクティ大阪)が完成。大丸梅田店、大阪ターミナルホテルなどが入居している。大林組が施工。
恒和化学工業、セメント系防錆防食塗料「セメンシャス」を開発。構造物の劣化防止、補修市場から注目度が高まる。
日本特殊塗料、超高弾性壁面防水化粧材「ハイプルーフ」の販売開始。防水材や塗り床材、内・外装材といった幅広い分野で活用されている。 大阪城が築城400周年。現在の天守閣は1931年に復興されている。
ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、高耐候性常温硬化型フッ素樹脂塗料「ボンフロン」の商品化に成功。 ハウス食品がミネラルウォーター「六甲のおいしい水」の発売開始。ミネラルウォーターブームがここから始まることになる。
ヤブ原産業、カチオン系下地調整材「カチオンフィラー」の販売開始。
1984年 亜細亜工業、『弾性フッ素樹脂塗料』を開発。 グリコ・森永事件。江崎グリコ社長の誘拐事件から始まったこの事件は、日本の警察史上最大の未解決事件とされている。

 

科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、ウレタン塗膜防水材「サラセーヌ」の販売開始。
1985年 亜細亜工業、『金属表面合金化剤ペイントタイプ』を開発。 両国国技館が完成。

 

相撲のための専用の建物『国技館』は1909年に開館していたが戦災と関東大震災による火災で二度消失している。

 

その後、1949年、蔵前に国技館の建設が始まった。ただ戦時中で資材のない時代だったため、1970年代から改修か、新たな国技館を建設するか議論になっていた。

 

科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、フッ素樹脂系保護仕上材「サラセーヌTL」(現・サラセーヌTフッ素)の販売開始。
ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、「ボンフロンC工法」「ボンフロンP工法」「ボンフロンM工法」の販売開始。
1986年 亜細亜工業、『アクリルシリコン樹脂塗料』を開発。 天皇陛下在位60年。
中国塗料、海中で塗装できる水中硬化型塗料『パーマスターWE』の販売開始。 英チャールズ皇太子とダイアナ妃が来日。
山本窯業化工、石材調仕上塗材『セラキャスト』の販売開始。 ハレー彗星が76年ぶりに大接近。
ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、打放しコンクリート面へのフッ素樹脂クリヤー工法「ボンフロンAC工法」の販売開始。 ビートたけしのフライデー襲撃事件。
1987年 関西ペイントが有機・無機ハイブリッド型水溶性塗料「アレステリア」、NAD形含フッ素樹脂塗料「アレスフロン」を発売開始。 この頃から『バブル景気』と呼ばれている。株価が高値を付けることになり、1993年ごろまで景気は続くことになる。

 

不動産を中心に資産の高騰が見られている。塗料業界にとっても好景気に湧くことになった。

山本窯業化工、土壁模様の『テラックス』、天然石調の平滑模様『セラフラット』の販売開始。
ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、PCM用焼付フッ素樹脂塗料の開発に成功。
1988年 亜細亜工業、『吹付アスベスト封じ込め材及び工法』を開発。 東京ドームが完成。        竹中工務店が施工。地下2階、地上6階の鉄骨鉄筋コンクリート造。

 

もともと後楽園スタジアムとして開場されていたが、日本最初のドーム球場として建設されることになった。

中国塗料、プレジャーボート専用塗料『Seajet』の販売開始。
山本窯業化工、天然石調割肌模様『セラキューブ』、大理石調トラバーチン模様『セラキャストD』、御影石調の『セラグラニー』の販売開始。
科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、ウレタン塗膜防水通気緩衝工法「サラセーヌAV工法」の販売開始。 道路・鉄道併用橋の瀬戸大橋が開通。岡山県倉敷市から香川県坂出市まで。鉄道道路併用橋としては世界一長いことで知られている。

 

塗装については重防食塗料が採用されており、エポキシ樹脂塗料、ポリウレタン樹脂塗料が活用された。

ボンタイル株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、「旭硝子コートアンドレジン株式会社」に社名を変更。
ヤブ原産業、乾式・湿式複合防水工法材「YSシート」の販売開始。

 

大正後期から昭和後期までの時代は、戦争から復興、高度経済成長、バブル景気など、激動の時代であることが分かります。

 

塗料メーカーも数多く創業することになりますが、戦争中や戦後のオイルショックなどにおいては輸入に頼っていた材料が手に入らず、四苦八苦している様子が分かります。

 

そのような中で、四国化学研究所(現 エスケー化研)や鉛粉塗料株式会社(現 大日本塗料)などといった、現代にも続く大手塗料メーカーが続々誕生しています。

 

大正時代の後期から昭和初期にかけての塗料業界

大正時代の後期から昭和初期にかけて、第一次世界大戦の影響によって輸入・輸出ともに落ち込んでおり、『1920年恐慌』として知られています。

 

さらに、1923年には関東大震災が発生、昭和の時代に入って1927年には『昭和金融恐慌』によって日本中はパニックとなりました。

 

1930年に入ると、少しずつ経済が回復しだしますが、軍需が優先される政策が始まり、塗料業界にとっても大きな影響を受けることになります。

 

多くの塗料工場では閉鎖に追い込まれますが、一部の塗料メーカーは国の指定を受け、造船や車両製造において塗料が活用されるようになり、事業の拡大が見られるようになりました。

 

ただ、1945年の終戦時には、戦災によって多くの工場が機能を果たせないようになり、新たに復興を目指すことになります。

 

日本の産業自体は、1955年の朝鮮戦争の軍需をきっかけにして景気が上向きになるようになり、奇跡的な成長を遂げるようになります、

 

1970年ごろまで続く高度経済成長です。

 

エスケー化研の歴史

エスケー化研は、日本ペイント、関西ペイントと並ぶ三大塗料メーカーとして注目されており、建築用の仕上げ外装塗料のシェアは50%強であることが知られています。

 

創業は1955年、大阪市北区に四国化学研究所としてスタート、創業者は藤井 實で、当時は22歳、3名体制での創業だったようです。

 

2017年に長男である実広氏が社長に昇格するまで、社長を続けて来られました。(現在は会長職)

 

ちなみに、大阪市北区での創業なのに『四国化学研究所』と四国が名称になっていることを不思議に感じる方がいらっしゃるのではないでしょうか。

 

四国とは、地方の四国を指しているのではなく、北海道・本州・四国・九州の4つの国という意味を持っています。

 

現在の社名であるエスケー化研は、1991年に改称されていますが、四国の『S』、化学の『K』といった文字を取ったものになっています。

 

エスケー化研は、現在では日本を代表する塗料メーカーであり、塗料の分野で様々な技術開発を行い、多くの実績を残しています。また製品は、国内のみならず、世界各国で使用されています。

 

エスケー化研の創業精神として『無から有を生じる』という考え方があります。

 

もともと四国化学研究所として創業当時は、廃溶剤をリサイクルすることから始まっていることもあり、『無から有を生じる』という考えを大事にしてきたそうです。

 

オイルショックによって打撃を受けたときには、インドで砂漠の砂を見て「活かせることはできないか」と感じ、自然素材を使った無機質系塗料を開発したというエピソードもあります。

 

そのため、エスケー化研の製品の中には、『国内初』『世界初』と呼ばれる製品がたくさんあり、世の中にないものをつくることを使命にしている会社であることはよく分かります。

 

エスケー化研は、今後も独自の技術開発に力を入れ、社会に貢献していく企業です。

 

参考:エスケー化研『会社沿革』、経営者通信『絶体絶命の窮地を革新の契機にせよ、エスケー化研株式会社 代表取締役社長 藤井 實

 

大日本塗料の歴史

昭和に創業した塗料メーカーの中で、代表的な存在であるのが『大日本塗料』。

 

現代においても、日本ペイント、関西ペイントに続いて、日本の塗料メーカーのトップレベルに位置づけられます。

 

1929年に日本電池株式会社(現 ジーエス・ユアサコーポレーション)から分離して独立、「鉛粉塗料株式会社」として発足しています。

 

当時の従業員は、わずか20名程度であったと言われています。

 

鉛粉塗料株式会社の初代社長である島津源蔵は、日本電池の社長時代に鉛粉の製法特許技術を完成させていますが、この技術を塗料に用いることを思い立ちます。

 

鉛は、古くから塗料の成分として活用されてきましたが、特許を取得した易反応性鉛粉製造法によって、大量の鉛粉を作り出すことができるようになりました。

 

そこで、鉛粉を活用した錆び止め塗料の開発に取り組んで、亜酸化鉛粉錆止塗料「ズボイド」を完成させたのでした。

 

財閥の支援を受けて大阪の阿部ペイントを買収、1935年には旭ラッカー製造所を吸収合併し、1936年に現在の大日本塗料株式会社となっています。

 

当時の日本は、1931年に満州事変が勃発、どんどん戦火が激しくなっており、同時に軍需産業が活気を帯びていました。

 

1930年には、海軍省の指定工場として認定、造船や車両などにおいて塗料の需要が増していき、1938年には大阪、横浜工場を増設し、業績が大幅に拡大することになりました。

 

ただ、輸入に頼っていた原料の入手が難しく、さらには1945年の終戦時には戦災によって主力の工場も被害にあうことになり、戦後はゼロからの再出発となっています。

 

1955年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに国内産業は息を吹き返し、大日本塗料においても精密化学に対する技術開発に力を入れることになりました。

 

参考:大日本塗料『沿革

平成・令和~リペイント匠の創業

時代 塗料の歴史 時代背景
1989年 日本特殊塗料、建築外壁用塗料「シルビア」シリーズの研究開発。 平成元年。昭和天皇が崩御。
1990年 中国塗料、有機錫規制にいち早く対応した錫フリー船底防汚塗料『マリンスター』の販売開始。 天皇陛下が即位の礼・大嘗祭。祝賀パレードに大勢の観客が集まる。
科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、超速硬化ウレタン吹付けシステム「サラセーヌS」シリーズの販売開始。 株価が一時2万円を割る大暴落。
ヤブ原産業、天然石樹脂舗装材「彩」シリーズの販売開始。 東西ドイツが統一。
1991年 水谷ペイントの『ポリマテックス』『水系ダントップR』がエコマーク認定。塗料業界として初。 湾岸戦争ぼっ発。イラクがクウェートに侵攻した。日本は多国籍軍に90億ドルの追加支援を行っている。
科研塗料株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、科研株式会社に名称変更。
日本化工塗料が、ガラス用カラークリヤーおよび工業用防カビ塗料「カビストップ」の販売を開始している。 ソビエト連邦が消滅。ゴルバチョフは辞任し、エリツィンがロシア連邦の初代大統領となった。
中国塗料、コンテナ用水系塗料『エコメイト』の販売開始。 雲仙・普賢岳で火砕流が発生。
四国化学研究所、社名を「エスケー化研株式会社」に改称 千代の富士が引退。1992年に引退相撲及び断髪式が行われた。

 

同時に若貴ブームが到来。1992年5月に史上最年少優勝(当時19歳)するなど、相撲が大いに沸いた時代である。

旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、水性フッ素樹脂塗料「ボンフロン水性」の商品化に成功。世界初。打ち放しコンクリート保護工法「ボンフロンACドライ工法」の販売開始。
ヤブ原産業、天然石洗い出し調樹脂舗装材「テクストン」の販売開始。
1992年 水谷ペイントの環境対応型水系塗料『水系ポリマ』『水系ひかり』『水系ボウジンテックス』などがエコマーク認定。  東海道新幹線「のぞみ」が運転開始となった。
日本化工塗料が、蒸着紙用塗料(UVタイプ、水性タイプ)、ドライラミ用エマルジョン接着剤の販売を開始している。 バルセロナ五輪が開幕。14歳の岩崎恭子が競泳女子200m平泳ぎで金メダル獲得。同種目の金メダルは、56年ぶりの快挙。「今まで生きてきた中で、一番幸せです」とのコメントが話題に。
日本化工塗料が、グラビア用UV塗料、プラスチック用メタリック抗菌塗料の販売を開始している。
中国塗料、万能プライマー『バンノー200』の販売開始。 長崎県佐世保市にハウステンボスが開業。

 

オランダ語で「森の家」を意味するネーミングで、テーマパーク内には中世オランダの街並みや港町が再現された。

中国塗料、加水分解型船底防汚塗料『シーグランプリ』の販売開始。
カナヱ塗料、『錫フリー加水分解型防汚塗料』の販売開始。
鈴鹿塗料、スズカファイン株式会社に商号を変更する。 国家公務員の週休2日制がスタートした。
1993年 日本ペイント、外壁用下地調整微弾性フィラー「アンダーフィラー弾性エクセル」の販売開始。 バブル崩壊によって大型不況が深刻化している。企業のリストラが社会問題となった。
1994年 東日本塗料、     一液型ウレタン塗膜防水材『フローン01』の販売開始。 バブル崩壊から円高が急激に進む。戦後初めて1ドルが100円をわって、一時99円50銭となった。

 

長期的に経済は停滞期に入ることとなり、不動産の価値は下落に転じ始めた。

 

不動産関連の融資はそれまで好調であったが、土地の下落とともに低迷。行き過ぎた不動産融資を抑制するために総量規制、三業種規制といった行政指導が行われるようになった。

 

 

 

山本窯業化工、コテ塗り仕上塗材『コテファイン』、乾式仕上材複合板『デバン』の販売開始。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、セラミック調水性フッ素樹脂塗料「ボンフロンパレ」、低汚染型溶剤フッ素樹脂塗料「ボンフロンSR」、飛散低減型鉄塔用フッ素樹脂塗料の販売開始。
ヤブ原産業、天然石埋め込み樹脂舗装材「ペイブストン」の販売開始。
1995年 科研株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、ウレアセラミック系・水系硬質ウレタン塗り床材「ミルクリート」の販売開始。 阪神・淡路大震災が発生。淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3を記録した。

 

近畿の広い地域で大きな被害を受けた。特に神戸における被害は甚大であり、多くの建物が倒壊した。

旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、改修用厚膜型水性フッ素樹脂塗料の開発に成功し、「ボンフロン水性W#1500SC工法」の販売開始。
1996年 旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、プール専用塗料「プールボン」の販売開始。 バンダイが携帯ゲーム機「たまごっち」を発売。子供から大人まで大人気に。
1997年 日本ペイント、水性シリコン系屋根用塗料「水性シリコンベスト」の販売開始。 バブル崩壊に伴って、この年に多くの金融機関が破綻することになった。

 

破綻については1991年ごろから見られるようになったが小規模の金融機関のものだった。

 

この年に破綻した金融機関には、北海道拓殖銀行、山一証券、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行といった大手であった。政府は、日本長期信用銀行と、日本債券信用銀行を国有化するなど対策を講じている。

 

塗料メーカーにおいても、景気の後退によって大規模な工事も縮小傾向になったために厳しい時代に差し掛かったと言える。

 

ただ、この頃から発展が目覚ましい中国や東南アジアに着目し、海外進出も多く見られるようになった。海外での塗料生産はどんどん増加している傾向にある。

 

日本特殊塗料、愛知工場が品質マネジメントシステムの国際規格「ISO9000」シリーズの取得。2002年には国際規格「ISO14001」も、すべての工場において取得が完了している。
アイカ工業、甚目寺工場でISO9001認証取得。以後、ISO9000シリーズやISO14000シリーズおよびOHSAS18001の認証をグループ企業全社で取得。
アイカ工業、ウレタン樹脂系塗り床材「アイカピュール」の販売開始。
カナヱ塗料、『建材用水系フッソ樹脂塗料』を開発する。
山本窯業化工、土木・建築用景観材『モルドフォーム』の販売開始。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、環境にやさしいコンクリート生地仕上「ボンフロン水性AC工法」の販売開始。
1998年 亜細亜工業、『水性アクリルウレタン樹脂』を開発。同年、IS09001認証取得。 バブル崩壊後の影響が根強く、経済状況は戦後最悪と言われている。

 

経済成長はマイナスを記録し、企業の倒産やリストラが大きくクローズアップされた。

 

完全失業率は過去最悪となり、終身雇用といった考え方はこの頃からなくなりつつあった。

 

塗料メーカーにおいても景気後退により雇用縮小を余儀なくされた。その後の経済回復に伴い、多くの塗料メーカーは少しずつ復活の兆しが見えるようになった。

アイカ工業、耐擦傷性化粧ボード「アイカマーレスボード」、簡易施工「セラールONタイル工法」の販売開始。
エスケー化研、大利根工場がISO9002認証登録。1999年には九州工場、2000年には名古屋工場でも認証を受けている。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、窯業系サイディング板改修用の水性フッ素樹脂塗料の販売開始。
1999年 亜細亜工業、『弱溶剤形アクリルウレタン塗料』『水性アクリルウレタン樹脂塗料』を開発。 景気低迷のあおりを受けて、日本ペイントにおいても赤字転落に。

 

新規業績が不振で、成長も鈍化していることによって、1999年3月期には最終赤字28億円となった。

 

塗料メーカーの多くは海外に活路を見出していたが、日本ペイントの海外事業は軌道に乗せることができなかった。

亜細亜工業、『無溶剤形無機塗料』を開発。
ダイフレックス、環境対応型水硬化ウレタン防水材、および保険付長期保証防水工法「バリューズ」を開発。
2000年 ターナー色彩、インテリアペイント『J カラー』、屋外用自然塗料『ESHA エクステリア』の発売開始。 この頃から水性塗料の出荷生産量が急激に増加し、溶剤上塗り塗料を上回るように。

 

1990年代には溶剤系がピークを示していたが徐々に鈍化し、1992年ごろから水性塗料に追い抜かれる製品も見られるようになった。

 

有機溶剤(VOC)が光化学スモッグや大気汚染の原因物質になると指摘されたため。

 

株式会社アステックジャパン(現 アステックペイント)の創業。
カシュー株式会社、ISO9001を取得。2006年にはISO14001を取得している。
山本窯業化工、顔料で鮮やかな発色を実現した仕上塗材『テラックス2000』、珪藻土内装用仕上塗材『麗藻』の販売開始。
2001年 大日本塗料が田辺化学工業と合併。自動車・プラスチック塗料を強化。 3月に『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)』が大阪市にオープン。さらには、9月に『東京ディズニーシー』が開園した。不景気な中で、明るいニュースとなった。
アイカ工業、環境配慮型接着剤「アイカエコエコボンド」の販売開始。
カナヱ塗料、エポキシ系防食塗料をはじめとする『エコパワーシリーズ製品』の販売開始
朝日ソルベント工業がエーエスペイント株式会社に社名変更。 国際海事機構(IMO)において船舶の有害な防汚方法の規則に関する国際条約が採択された。

 

それまで多く採用されていた有機スズ化合物を含有する防汚塗料の塗装が禁止されることになった。

エスケー化研、大利根工場、九州工場、名古屋工場、本社、第一技術研究所においてISO9001拡大認証登録。2002年には全社体制が確立される。
科研株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、環境対応防水工法「サラセーヌRE」シリーズ(サラセーヌECOの前身)の販売開始。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、土壁調水性フッ素樹脂塗料「ボンフロンDEつち」の販売開始。
2002年 日本化工塗料がISO9001:2000認証登録。 バブル崩壊後のデフレ不況によって、日経平均株価は9,000円を割り込むことに。1983年以来の最安値となった。
亜細亜工業、『反応型一液弱溶剤形シリコン塗料』を開発。
恒和化学工業、超耐候・超低汚染形変性無機塗料「ダイヤスーパーセラン」を開発。 ノーベル物理学賞に東大名誉教授の小柴昌俊氏、化学賞に株式会社島津製作所の田中耕一氏が受賞した。
カナヱ塗料、『環境対応形水系エマルション室内塗料』の販売開始。
ターナー色彩、屋内外用光沢塗料『水性メタリックペイント』の発売開始。 サッカー・ワールドカップが日本と韓国で共同開催。トルシエ監督に率いられた日本は、決勝トーナメント(ベスト16)進出を果たした。優勝はブラジル。
山本窯業化工、本社・大阪支店・工場がISO9001:2000の認定を取得。

同年、創作模様仕上塗材『テラウォールSi』、シリコン屋根用仕上塗材『ベストリファイン』、簡単施工で御影石調を演出する仕上塗材『マルチストーン』の販売開始。

旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、完全艶消し水性フッ素樹脂塗料「ボンフロン・マット」、低汚染型水性フッ素樹脂塗料の開発に成功し、「ボンフロン水性SR」の販売開始。 ソルトレイクシティオリンピックが開催。日本は、ピードスケートの清水宏保が銀メダル、モーグルの里谷多英が銅メダルに輝いた。
ヤブ原産業、天然石洗い出し調樹脂舗装材「彩洗い出し」、白華除去剤「スーパーエフロクリーン」 北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。
2003年 亜細亜工業、『弱溶剤形フッ素樹脂塗料開発』『弱溶剤形無機塗料開発』を開発。 株式会社久保組(現 リペイント匠)の創業。

 

当時は下請け工事メインであったが、「お客様に直接工事をすればもっと喜んで頂けるはずだ」と株式を売却。2012年に外壁塗装店リペイント匠を創業することとなった。

中国塗料、シリコーン系船底防汚塗料『CMPバイオクリン』の販売開始。
エーエスペイント、ISO9001の認証。
山本窯業化工、床用仕上塗材『ユカセラ』の販売開始。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、鉄塔用防錆飛散低減型フッ素樹脂塗料の一回塗りの開発に成功。 日経平均株価が7,600円台にまで下落、バブル後の最安値となる。
2004年 山本窯業化工、高耐候性シリコン仕上塗材のキャスト模様『グッセラ・Gキャスト』、さざなみ模様『グッセラ・Gローラー』、砂壁洗出し模様『アレナムーロ』、改修用仕上塗材『ハイシーカラー』の販売開始。 アテネ五輪が開幕。日本は、金メダルの獲得が史上最多タイの16個、メダルの総数においては史上最多となった。柔道の野村忠宏が3連覇、女子柔道の谷亮子が2連覇、水泳の北島康介が2冠など。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、都市の美化に貢献する「ボンフロン落書防止クリヤー」の販売開始。 プロ野球の球団再編で大揺れ。近鉄球団とオリックスとの合併に反対しプロ野球選手会が史上初のストライキを決行。新規参入の球団として楽天とライブドアが争うこととなった。
ヤブ原産業、下地調整塗材耐溶剤型「カチオンタイトFS・TS」、下地調整塗材速硬型「速硬カチオン厚塗り」の販売開始。
2005年 亜細亜工業、『水性無機塗料』を開発 アスベストの中皮腫などの健康被害が表面化するようになった。大手機械メーカーで働いていた社員から多数発生した。

 

当時、アスベストは多くの量が輸入されており、屋根材など建材製品に多く利用されてきた。

 

環境省はこれらの問題を受け、アスベストの健康被害について検討会が開かれるようになった。

 

吹付けアスベストやアスベスト含有吹付けロックウールの使用状況が調査され、除去・封じ込めなどの必要な措置について示されるようになった。

 

2022年からは大気汚染防止法に基づいて、アスベスト含有の事前調査結果の報告が義務化されることになった。

中国塗料、燃費低減型船底防汚塗料『SEAFLO NEO』の販売開始。高い防汚性能、なめらかな塗膜表面で船舶の燃費を低減させることが期待できる。
カナヱ塗料、     ISO14001認証取得。
ターナー色彩、自然系塗料『無臭柿渋』、屋内外装飾用塗料『エイジングアートカラー』の販売開始。
山本窯業化工、装用多彩仕上塗材『彩華』の販売開始。
東日本塗料、ISO9001:2000(品質マネジメントシステム)認証取得。2007年にはISO14001:2004(環境マネジメントシステム)の認証取得、2009年にはISO9001:2008(品質マネジメントシステム)の認証を取得している。
ヤブ原産業、下地調整塗材厚塗り用「YS厚付モルタル」の販売開始。
2006年 東日本塗料、日本ウレタン建材工業会『環境対応型ウレタン防水材システム』の認定。販売開始。 冬季五輪トリノ大会が開幕。フィギュアスケート女子で荒川静香が、日本フィギュア界初の金メダルを獲得。自由演技に取り入れた「イナバウアー」は流行語大賞にも選ばれた。
科研株式会社(現 AGCポリマー建材株式会社)、超速硬化ウレタン吹付けシステム「リムスプレー」及び「エコガード」により、ウレタンスプレー市場に本格参入。同年、ISO14001認証を取得。
旭硝子コートアンドレジン株式会社(現 AGCコーテック株式会社)、「ボンフロン落書防止クリヤー」のつや消しタイプの開発に成功。 戦後初めて総人口が前年を下回った。2005年に実施された国勢調査において、前年から約22,000人減少していることが判明した。2006年以降も減少傾向となり、少子高齢化が浮き彫りとなった。
日新産業、宇宙航空研究開発機構(JAXA)技術導入製品『ガイナ』の販売開始。
ヤブ原産業、無機系遮熱コーティング材「シャネツカラー」の販売開始。
2007年 恒和化学工業、ダイフレックスグループに加わる。 米国のサブプライム問題が世界経済に大きな影響を及ぼした。

 

日本も例外ではなく、輸出の減少や株価の下落など、さまざまな影響を受けることに。

 

日本企業の輸出は減少し、株価も大幅に下落した。円高も進み、輸出企業の収益を圧迫、日本の金融機関も、米国の金融機関の経営危機の影響を受けた。資金繰りが難しくなり、経営破綻に追い込まれた企業も。

 

住宅関連会社の株価が大幅に下落したこともあり、塗料メーカーに対しても悪影響を及ぼすことになった。

 

カナヱ塗料、『水系漁網防汚剤』の販売開始。
東日本塗料、水系硬質ウレタン系塗床材『フローンクリート』の販売開始。
科研株式会社、AGCポリマー建材株式会社に名称変更。
旭硝子コートアンドレジン株式会社、AGCコーテック株式会社に社名変更。同年、弱溶剤型フッ素樹脂塗料「ボンフロンライト工法」、低汚染型フッ素樹脂遮熱塗料「ボンフロンサンバリア」の販売開始。
AGCコーテック、ISO 9001取得。同年、フッ素樹脂コーティング材「オブリガート(Obbligato)」、太陽熱高反射率塗料「ボンフロンサンバリア」の販売開始。
ヤブ原産業、下地調整塗材早強型「マルチカチオンC」、水性浸透強化剤「水性浸透プライマーW」の販売開始。
2008年 ヤブ原産業、天然石深層透水舗装材「深層透水40」の販売開始。 ノーベル賞、日本人研究者4人が受賞。
2009年 山本窯業化工、コテ施工で石材調を表現できる『グラテ』、超高耐候の『フッ素仕上塗材シリーズ』の販売開始。 麻生太郎首相が衆議院を解散、第45回衆議院総選挙が行われ、民主党が過半数を大きく上回る308議席を獲得し、政権交代を果たした。

 

民主党の政権交代は、社会に大きな影響を与えることになった。

ヤブ原産業、透水舗装パネル「楽砂利パネル」、一材型カチオン性下地調整塗材「タイトワン」の販売開始。
2010年 中国塗料、プラスチック用高機能塗料『フォルシード』の販売開始。木工でのUV技術をプラスチック用に開発。 鳩山由紀夫首相が、米軍普天間飛行場移設問題での迷走などを理由に退陣。菅直人内閣が発足した。
中国塗料、エポキシ樹脂充填材『CMPライナー』の販売開始。 政府と日本銀行は、1ドル82円台に突入し円高が進む中、円売り・ドル買い介入を実施した。これは、2004年以来、6年半ぶりの市場介入となった。
ターナー色彩、伸縮性のあるゴム素材に塗る水性塗料『ラバーペイント』の発売開始。
山本窯業化工、セルフクリーニング機能を持つ光触媒塗料『オプティマコート』の販売開始。 日本航空(JAL)は、2兆3,000億円の負債を抱え、会社更生法の適用を申請し、事実上倒産した。JALの経営破綻は、日本航空史上初の事態であり、日本の航空業界に大きな影響を与えた。

 

リーマン・ショックによる世界的な景気悪化の影響で航空需要が減少。円高が進んだことで競争力の低下。過剰な設備投資や高コスト体質などが原因と考えられている。

 

日本政府は、JALの再建を支援するために、公的資金を投入した。

AGCコーテック、滑雪機能型フッ素樹脂塗料「ボンフロンラク雪クリヤー」、遮熱塗料「水性サンバリア」(外壁用)、特殊環境対応型フッ素樹脂塗料「ボンフロンGT」の販売開始。ボンフロン水性ACの3工程仕様化に成功。
ヤブ原産業、天然石最密構造樹脂舗装材 新「アーバンロック」、天然石砂利壁仕上材「ビーンズウォール」、天然石最密構造樹脂舗装材「彩アストン」、古色塗料「久米蔵」の販売開始。
2011年 山本窯業化工、シリコン系微弾性創作仕上塗材『テラウォールV』の販売開始。 宮城県沖で東日本大震災が発生し、東北地方を中心に大きな被害をもたらした。

 

マグニチュードは9.0と推定、地震による津波は、沿岸部を襲い、多くの家屋やインフラが破壊された。

 

地震と津波による被害は甚大で、建物の全半壊は12万戸以上に上り、経済的損失は20兆円に上ると推計されている。

山本窯業化工、太陽の熱を遮断する遮熱型省エネ塗料『テラクールSi』、しっくいで空気環境を改善する創作仕上塗材『テラしっくい』の販売開始。
AGCコーテック、弱溶剤型遮熱塗料「ボンフロン弱溶剤サンバリア」、軽量PC用下塗材「ガードプライマーPCW、アンダーコートPCW」、強制乾燥型遮熱塗料「ボンフロン#5200SRサンバリア」、フッ素粉体塗料「ボンフロンPWC」の販売開始。
2012年 AGCポリマー建材、「サラセーヌECO12(特化則非該当)」シリーズの販売開始。 外壁塗装店リペイント匠の創業。

 

県内ではじめて、一般のお客様専門の外壁塗装業者となった。同年、足場事業部も設立している。

ヤブ原産業、水性浸透強化剤「ガッチリプライマー」、遮熱塗料用断熱性下地調整塗材「ダンネツタイト」の販売開始。
2013年 日本化工塗料が、フィルム用機能性ハードコート「TOMAX」の販売開始。 リペイント匠の法人化。『株式会社リペイント匠』。資本金800万円。
東日本塗料、一液速乾水性コアシェル型床用塗料『フローンアクアファースト』の販売開始。
山本窯業化工、超高耐候屋根塗材「ベストリファイン」に省エネ機能をプラスした『ベストリファインクール』、微弾性断熱型省エネ塗料『ネオフレッシュ断熱』の販売開始。 安倍晋三首相は「アベノミクス」を発表。3本の矢として大胆な金融緩和、財政出動、成長戦略への取り組みが行われることに。

 

2013年後半から景気は回復基調に転じ、企業の設備投資や雇用が増えた。

ヤブ原産業、下地調整塗材速硬型「速硬カチオンローラー」の販売開始。
2014年 日本化工塗料が蒸着用UVアンダーコートの生産を開始している。 日本の株式市場は、円安や景気回復の期待などから、大きく上昇。

 

2013年12月末の1万6,000円台から、2014年12月末には2万1,000円台まで上昇した。

 

円安・株高は、海外展開する塗料メーカーにとっても追い風となった。

山本窯業化工、戸建サイディング改修専用の『リファインシステム』の販売開始。
ヤブ原産業、水性浸透強化剤「ガッチリ浸透プライマーW/寒冷地」の販売開始。
2015年 東日本塗料、業界初となるローラー施工可能な水系硬質ウレタン系塗床材『フローンクリート ローラー用』の販売開始。 リペイント匠、久居相川町に「久居店」を出店。
山本窯業化工、多彩模様塗料『ネオフレッシュティアラVS』の販売開始。 塗料メーカーの2015年3月期の連結決算において、国内主要塗料メーカーの多くが過去最高となった。

 

日本ペイント・関西ペイント・大日本塗料は営業利益が過去最高に、大日本塗料においては売上高も過去最高となった。

 

ロックペイントにおいては、経常利益が過去最高を記録した。

AGCポリマー建材、高強度形防水材 サラセーヌAシステム「サラセーヌ堅鎧シリーズ」の販売開始。
アステックペイント、「超低汚染リファインSi-IRシリーズ」の販売開始。
AGCコーテック、落書防止フッ素塗料「ボンフロン落書防止エナメルGT」、着雪防止フッ素塗料「ボンフロンラク雪エナメルGT」、ボンフロン水性クリヤーコートの販売開始。
2016年 リペイント匠、建設業「塗装・とび・土工」許可取得。
2017年 東日本塗料、一液水性速乾遮熱屋根用塗料『ツインコートS-4』の販売開始。 日本ペイント、関西ペイント、大日本塗料において増収を記録しています。

 

海外展開を進める企業が増えています。

 

中でも日本ペイントは中国塗料メーカーを3社買収、米国塗料メーカーを子会社化するなど、基盤を拡大しています。

 

関西ペイントにおいても、それまでのインドでの拡大だけではなく、東アフリカの塗料メーカーを買収しています。

 

エスケー化研は、中国や東南アジアでの展開が本格化しました。

山本窯業化工、新しい石材調仕上塗材『マデストンVS[匠の石]』の販売開始。
アステックペイント、「超低汚染リファインMF-IRシリーズ」の販売開始
AGCポリマー建材、特化物無配合防水材「サラセーヌEZ」、特化物無配合1液防水材「サラセーヌSB」の販売開始。
AGCポリマー建材、手塗り用JIS高強度形特化則非該当防水材「サラセーヌAZ」の販売開始。
ヤブ原産業、コンクリート用洗浄剤「コンクリ汚れイッキ落ち」の販売開始。
2018年 AGCコーテック、石材調水性フッ素樹脂塗料「パレストーン」、天然石調水性フッ素樹脂塗料「パレマイカ」の販売開始。 平昌冬季オリンピックが開幕。日本勢は、羽生結弦の2大会連続金メダルをはじめ、冬季最多の13個のメダルを獲得。
アステックペイント、「シリコンREVO1000シリーズ」の販売開始
ヤブ原産業、合成樹脂系塗り床材洗浄剤「塗り床汚れイッキ落ち」、無機質専用水性浸透強化仕上げ材「Hey浸透フィニッシュ」の販売開始。 成人年齢を引き下げる改正民法が成立し、2022年4月1日の施行後は18歳で成人に。
2019年 AGCコーテック、戸建用ボンフロン弱溶剤クリヤー低汚染の販売開始。 平成の天皇陛下が退位され、新たに皇太子徳仁親王殿下が天皇に即位された。
ヤブ原産業、カビ・藻・コケ汚れ洗浄剤『目地カビイッキ落ち』の販売開始 消費税率が10%に引き上げ。
2020年 ヤブ原産業、簡易的散布型砂利固定剤『楽砂利ロック』の販売開始。 リペイント匠、鈴鹿市道伯に「鈴鹿店」出店。「津市分部」に技術作業場を増設。建設業「防水」許可取得。
アステックペイント、建築用遮熱塗料メーカーシェア1位を獲得。
2021年 ターナー色彩、抗ウイルス機能を搭載する『ミルクペイント 室内かべ用 アンチウイルスプラス』、塗るだけでミリタリーテイスト『ミリタリーペイントアーミー』の発売開始。 リペイント匠、津市一身田上津部田に本社を建て「津店・久居店」を移転。

 

松阪市大黒田に「松阪店」を建て出店。

 

名張市桔梗が丘に「名張店」出店。

 

代表久保の初めての書籍「家の寿命を20年延ばす、はじめての外壁塗装」を幻冬舎から出版。

アステックペイント、建築用遮熱塗料メーカーシェアで2年連続1位を獲得。
AGCコーテック、打放しコンクリート保護水性低汚染クリヤー「ボンフロンマットSRクリヤー」の販売開始。
2022年 物価高を背景として、塗料の原材料費の高騰が続いている。塗料メーカーの各社は価格改定を進めているが、収益悪化を引き起こす企業も。 リペイント匠、代表久保の書籍、「業者を決める前に知っておいてほしいこと」を出版。

 

アパート・マンション修繕事業部設立。

 

亀山市川合町に「亀山店」を建て出店。

2023年 昨年に引き続き、塗料の高騰が続いている。3大塗料メーカーである日本ペイント、関西ペイント、エスケー化研ともに、価格改定を公表している。 リペイント匠、資本金を3000万円に増資。

 

伊勢市本町に「伊勢店」出店。

 

平成に入るとバブル崩壊によって、経済は大きく低迷し、長期的な不況に入ることになりました。

 

企業は生き残りをかけて、リストラ、雇用の縮小などに踏み切りますが、大手企業の倒産も相次ぎ、塗料メーカーにとっても厳しい時代となっています。

 

そのためこの時代からは、国内の需要だけではなく、海外でのニーズにも応えられるように展開が進むようになり、国内大手の塗料のシェアが海外でもどんどん広がっていくことになります。

 

そのような時代の中で、消費者専門としては県内で初めて、わが社『リペイント匠』は創業いたしました。

 

今では、年間500件ものご依頼を頂戴するようになりましたが、創業から変わらない初志貫徹(大手企業のため一生懸命するのでなく、お客様のために一生懸命に仕事をして喜んで頂き、業界を魅力的にしたいといった初志を貫徹していくための工夫)を社員一同で貫いています。

 

県内初となる消費者専門の外壁塗装店リペイント匠の創業(2003年)

リペイント匠創業

リペイント匠は、一般のお客様専門の外壁塗装の職人直営店です。

 

代表である私、久保信也は、2003年に株式会社久保組を創業しましたが、下請け業務中心で満足のいく仕事ができないことに疑問を感じ、2012年にリペイント匠を設立しました。

 

リペイントには『塗り直し』『再生』という意味がありますが、塗装業者であるからこそ『塗り直し』はとても大事です。

 

しかし、それだけではなく、人として成長する『再生』という意味についても意識し、人の痛みがわかり、人に幸せを提供できる生き方をしたいと、リペイントのネーミングに含まれています。

 

また、『匠』という言葉には、技術と接客のプロフェッショナルとしての決意を込めています。私たちは、すべての職人が社会に貢献できるような生き方をすることを仕事としているからです。

 

そして、地元のお客様の幸せを実現するために、10年に一度の塗り替えを通して、職人たちと力を合わせて取り組むことが、私たちの使命であると考えています。

 

リペイント匠は、一般のお客様に特化した職人直営店として、高品質な仕事を適正価格で提供する事を信条に掲げています。

 

現在、津本店、亀山店、鈴鹿店、松阪店、伊勢店、伊賀・名張店の6店舗を構え、年間500件もの工事を行っています。

 

リペイント匠では、お客様にご満足いただけるよう、さまざまなサービスを提供しています。

 

この記事では、塗料の歴史について深堀りしてきましたが、これから私たちがお客様に寄り添いながら、新しい歴史の1ページをつくり上げていきたいと考えています。

 

 

■参考・引用

大同塗料-会社概要

日本特殊塗料株式会社-歴史

アイカ工業株式会社-アイカのあゆみ(年表で見る)

大谷塗料株式会社-会社概要

カナヱ塗料株式会社-沿革

ターナー色彩株式会社-会社概要、沿革

カシュー株式会社-会社概要、社歴

スズカファイン株式会社-会社概要、沿革

エーエスペイント株式会社-会社概要、会社沿革

日亜ペイント株式会社-会社案内

東日本塗料株式会社-会社概要・沿革

山本窯業化工株式会社-会社情報-沿革

菊水化学工業株式会社-会社沿革・キクスイの歴史

AGCコーテック株式会社-会社沿革

AGCポリマー建材-沿革

イサム塗料株式会社-沿革

ヤブ原産業株式会社-沿革

川上塗料株式会社-会社概要

水谷ペイント株式会社-会社情報-沿革

株式会社アステックペイント-会社概要-沿革

株式会社日新産業-会社情報-沿革

ロックペイント株式会社-会社沿革

スズカファイン株式会社-会社概要-沿革

神東塗料-沿革

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